10月16日 年間第29主日 ルカ18章1~8節 うるさくてかなわないから裁判をしてやろう

 

 先週の福音のあと、世の終わりについての教えを挟んで今日の福音となります。イエスはエルサレムへ向かう途上で弟子たちに、絶えず希望を持って祈り続けるようにと「やもめと裁判官のたとえ」を語られます。

 

 以前、教区司祭の黙想会の休憩時間に「聖書におかしい(おもしろい)表現がある」という話題になりました。奥村神父はパウロの宣教の際にアテネの人が「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言う言い方がおもしろい、ということでした。わたしの一押しは今日の福音の「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」というところです。だって、ひとりごとで自分の性格を宣言するなんておかしいと思いませんか?アニメで悪役が「わがはいは悪の帝王だ!人間の命なんて虫けらぐらいにしか思ってないわ、ガハハハハ」って言っているみたいじゃないですか。

 確かにそれでこの裁判官の人格が表されているのですが、ここで注目すべきなのは、裁判官:やもめ=神さま:私たち、という対比です。イエスの言葉は、「悪い裁判官でもしつこく頼まれたら困るので仕方なく裁判を開く。ではわたしたちを愛してくださっている父なる神ならばどうだろうか」という趣旨です。イエスはこのように、ときどき極端とも思えるたとえを話されます。悪人の父親でも子どもにはよいものを与えるという話や、夜中にパンを借りに来た友人に仕方なく貸す話などです。それらはまず人間でもこうするのだからというたとえを出して、ましてわたしたちを愛しておられる神は…というパターンで語られています。今日の話もそうです。「だから、あなたがたは安心して神を頼りなさい、しつこく願っても嫌がられるどころか喜んで聞いてくださるのだ」とおっしゃりたかったのではないでしょうか。

もう一つ注目するべきは、やもめが「裁きを求めている」ことです。「裁き」というと恐ろしいイメージがあります。ときどき「死後さばきに会う 聖書」という文字が書かれた黒いプレートを見かけますが、ちょっと恐怖心をあおっているように思います(作っているのはプロテスタントのまじめなグループだそうです)。しかし、裁きとは、正しいか正しくないかが判断されることです。

イエスは「裁きを求めなさい」と言われます。それは、神の裁きによって、世の中の不正によって苦しめられている人たちの正しさが証明され、救済されるからです。その意味では「裁き」とは「神の国の実現」に至るプロセスであるということができるでしょう。

 

 先週、先々週と福音のテーマは「信仰」でした。今日の福音もやはり「信仰」がテーマであるといえるでしょう。世の中の不正をなくすために神の裁きを求めること、困難にあっても気を落とさずに祈り続けることも信仰です。このように、信仰にはいろいろな形がありますが、遠慮なく神に頼る気持ちが大切なのです。         (柳本神父)