11月28日 待降節第1主日 ルカ21章25~28。34~36節  なぜ待降節に終末の福音か

今日から待降節が始まります。典礼暦年も変わり、いわば教会の新年です。といっても何か特別なお祝いがあるわけではありません。クリスマスに向かう第一歩の主日です。

しかし、今日の福音朗読箇所は待降節というよりも、先々週の福音とよく似ており、終末を表す内容となっています。司祭としては一週おいて同じ内容の福音朗読だと説教に困ります。幸い、共同宣教司牧で違う教会に行くのでその点は大丈夫ですが、このプリントで全く同じことを書くわけにはいきません。そこで、今回は終末について語られたこの福音箇所を待降節に読まれる意味を考えることから始めたいと思います。

 

待降節は字の通り、降誕を待つ、クリスマスを準備する期間です。教会では飾りつけやミサの準備をしますがそれだけが目的ではありません。教会の典礼暦は世界の始まりから終わりまでを一年で記念するので、主の降誕の前の待降節は旧約時代を表しています。それなのになぜ終末の出来事が朗読されるのでしょうか。

救い主の降誕を待つ、といっても現実の今はすでにイエスの誕生は過去のものになっています。現在のわたしたちが待っている主は、先週記念した通り再臨のキリストです。つまり、待降節は旧約の民に心を合わせて救い主の誕生を待つことを追体験するとともに、来るべき再臨の主を待つ準備をするという二重の意味があるわけです。それで今日の福音はイエスの終末予告の箇所が朗読されるというわけです。

ところで、今日の福音も先々週と同様に、世の終わりが天変地異の後に来る、という恐ろしさを感じさせる表現となっています、イエスは弟子たちやわたしたちを恐れさせようとされたのでしょうか。しかし、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る」と言われているように、喜びの希望を約束してくださっています。イエス自身も受難の苦しみののちに復活の栄光を受けられました。弟子たちも、迫害と殉教という苦しみののちに主の栄光に包まれています。わたしたちも、この世の苦しみ、死に対する不安はありますが、その先にイエスが約束された天の栄光へと招かれるのです。

 

今日の福音の最後に、イエスは「目を覚まして祈りなさい」と言われます。イエスはこの言葉をたびたび語られています。もちろん、睡眠もとらずに祈り続けるという意味ではありません。大切なことは、主がわたしたちのために生まれてくださったこと、そして主が来られることを忘れず、神の国の実現のために祈るということではないでしょうか。

キリストとの出会いは世の終わりだけではありません。日常生活における小さな出会いがあります。その積み重ねによって、世界は神の国へと導かれます。それは、コロナ下にある今の日常においても同じです。ですから、「目を覚まして」いるとは、わたしたちが毎日の生活の中で、イエスとの出会いを待ち続けることだといえるでしょう。待降節は馬小屋よりも日常生活の中にイエスを探しに行くときでもあるのです。   (柳本神父)