1月15日 年間第二主日 ヨハネ1章29~34節 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ

 

今日は今年最初の年間主日です。第一主日はどこへ行ったの?と思われるかもしれませんが、例年は「主の洗礼」の主日で降誕節が終わり、その後年間第一週が始まりますので、「主の洗礼」が年間第一主日を兼ねていることになります。ところが、今年は暦の関係で主の洗礼が9日の月曜日に祝われますので、第一主日にあたる日はありません。

その「年間」はイエスの宣教を記念する期間です。イエスはヨハネから洗礼を受けたあと宣教を始められたので、今週からはイエスの宣教の最初の部分が読まれます。今日はヨハネの福音の1章から選ばれています。

 

ヨハネの福音にはイエスの宣教の始まりの出来事は具体的に記されていません。その代わりにイエスが宣教を始めたころ、洗礼者ヨハネが「見よ、神の子羊だ」と告げる場面が記されています。今日の箇所はだれに対して告げたのかは書かれていませんが、続く箇所では二人の弟子(一人はペトロの兄弟アンデレ)に告げたことになっています。彼らはヨハネの弟子からイエスの弟子に変わるのですが、このことは、ヨハネが最後の預言者としてイエスに引き継ぐ役割をしていることを表しています。ヨハネも自分の弟子がイエスのもとに行くことを喜んで受け入れたのではないでしょうか。ヨハネの「見よ」という言葉にその思いが表れていると思います。

イエスの誕生もそうですが、ヨハネの福音ではイエスの生涯の出来事を具体的に記していないことがあります。イエスの洗礼も今日の福音にあるように、洗礼者ヨハネ自身の言葉によって表されています。今年は主の洗礼が主日でないので、今日の福音でイエスの洗礼の出来事についても知ることができるということになりますね。

そして、「世の罪を取り除く神の子羊」という言葉ですが、ミサの「平和の賛歌」でも唱えられ(あるいは歌われ)ます。これはイエス自らがいけにえの子羊となって十字架につけられ、罪の赦しをもたらされたことを表しています。イエスが「神の子羊」であることは受難と復活によって明らかになったことなので、これを聞いたヨハネの弟子たちは意味が分からなかったことでしょう。アンデレたちは復活のイエスと出会うことによって、ようやくヨハネのこの言葉の意味がわかったのではないでしょうか。

 

ヨハネからアンデレへ、イエスから使徒へ、そして使徒の始めた教会から信仰が引き継がれて今のわたしたちがあります。わたしたちもイエスこそ世の罪を取り除く方であることを信じ、それを洗礼者ヨハネのように世に伝える必要があります。

最近、カルト宗教が問題となっています。問題の一つは、「自分たちは特別な存在だ」という優越感があることです。キリスト信者は特別な存在ではありません。イエスの教えを通して神の愛に気づき、それを喜びとして生きる存在です。宣教とは信者を増やすことではなく、この世でその愛を分かち合っていくことなのです。      (柳本神父)