11月8日・年間第32主日 マタイ25章1~13節 むすめ10人かしこい5人

イエスはエルサレムで律法学者やファリサイ人たちを批判されたあと、終末にかかわるたとえ話を語られます。マタイの福音ではイエスのエルサレム入城によって旧約から新約へと新しい時代が始まることが示されます。そして、律法を守ることを生きがいにして人々への愛をないがしろにしていた人々に回心を呼び掛けられるのです。

今日のたとえ話はその一つです。「むすめ10人かしこい5人」というタイトルは、私が幼稚園を卒園するときにもらった「カトリックかるた」の一枚です。今もほとんどの言葉を覚えていますが、現在でも使っている人はいるのかな?

当時の結婚式は夜に行われ、花婿が花嫁を家に迎えに行くことになっていました。花嫁の家では花嫁といっしょに、ともしびを持った友人(おとめたち)が花婿を待っていました。花婿が来ると友人たちは花嫁とともに婚宴が行われる花婿の家に向かうという段取りでした。しばしば花婿の到着が遅れるので彼女たちは待ちくたびれて眠ってしまうこともあったのでしょう。

イエスは「目を覚ましていなさい」とおっしゃるのですが、たとえ話に出てくるおとめは愚かなおとめも賢いおとめも全員寝入ってしまうので、少し内容が合わないようです。ということから、このたとえ話のポイントは「起きていたかどうか」より「(油を)用意していたかどうか」ということにあるようです。

「花婿」はイエスを表しています。「婚宴」はたびたび神の国を象徴するものとして語られます。わたしはこのたとえ話から、「ちゃんとしてないと天国に行けませんよ」という戒めよりも「さあ、これから神の国に行くための用意をしましょう」というイエスの呼びかけを受けとめたいと思います。

では、「用意している」とはどういうことでしょうか。イエスが「その日。その時を知らないのだから」と言われるのは、世の終わりのことです。世の終わりというと恐ろしいイメージがありますが、神の国が完成し、イエスがふたたびこの世に来られるということです。それは、わたしたちにとって喜ばしいことですね。

わたしたちの住むこの世の世界が神の国となるのはまだまだ先のように思われます。けれども、気が付かないうちに神の国は広がっているのです。コロナ禍の中で人を思いやる心、災害のときに助け合う地域の人々、不正や差別に声をあげる人々。そこにはイエスがともにおられます。いっしょにイエスがおられたら、そこはもう神の国です。

イエスは「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章21節)と言われました。わたしたちにとって、「用意している」とは、この世で蒔かれた神の国の種を見つけ、ともに育て、そこにおられるイエスとの出会いを待ち望むことではないでしょうか。 (柳本神父)