12月13日・待降節第三主日 ヨハネ1章6~8、19~28節 光であるイエスに引き継ぐ

今日の福音は、先週の福音と同様、洗礼者ヨハネが救い主の到来を告げる場面です。先週はマルコでしたが今週はヨハネの福音です。同じ内容が違う福音書に記されている並行箇所です。このようなとき、司祭は二週続けて同じ内容についての説教をしなければならないので困るのですが、幸い奈良ブロックでは毎週行く教会が変わるので助かります。とはいえ、このプリントは毎週配ってもらうので、同じ説明をするわけにはいきません。

ではヨハネの福音書においてはどのような視点から救い主の到来が告げられているのでしょうか。ヨハネの福音では「初めに言葉があった。言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」という抽象的な表現で救い主の誕生が述べられています。この「光」はイエスを表しており、洗礼者ヨハネはその「光」について証しするために神から遣わされた、とされています。

ヨハネの福音書では洗礼者ヨハネの役割がとくに重視されています。ヨハネは続く箇所で「見よ、神の子羊だ」といってイエスを指し示し、アンデレともう一人の弟子は洗礼者ヨハネのもとからイエスの弟子となったとされています(1章35節~)。ヨハネは救い主の到来を告げるだけにとどまらず、イエスに引き継ぐという大切な役割をまかされていたことがわかります。つまり、ヨハネは旧約の時代を終わらせる幕引きの役目を与えられていたということです。そして、イエスによって新約の時代が始まりました。

わたしが高校生で名古屋の聖ヨハネ小神学院にいたとき、院長から小神学生に、「神学院のヨハネはどのヨハネか知っているか」と問われました。わたしが「『履物のひもを解く値打ちもない』と言った人ですか?」と答えたら「お、よく知っているね」とほめられた思い出があります。なぜかヨハネのこの言葉だけが印象に残っていたのですね。

ヨハネはなぜそのように言ったのでしょうか。もちろん神の子であるイエスと人間である自分を比べて、謙遜して言ったともいえるでしょう。しかし、わたしはここに旧約と新約の決定的な違いを見ることができると思います。

旧約の時代は預言者を通して間接的に神の言葉を聞きながら、イスラエルの救いを待ち続ける時代でした。それに対して新約の時代は、神の子である救い主が直接に神の言葉を告げ、自らの命を捧げることによって救いを実現された時代です。ヨハネの言葉には、そのような大きな違いがあるという意味が込められているのではないでしょうか。

ヨハネはまた、「あなたがたの中にはあなたがたの知らない方がおられる」と語りました。多くの人が、クリスマスを知っていても、イエスがどのような方であるかを知りません。コロナの時代にあって、人々は光を求めてさまよっています。わたしたちもヨハネのように、人々を光であるイエスに引き継ぐ役割を与えられているのです。(柳本神父)