1月22日 年間第三主日 マタイ4章12~23節 暗闇に住む民は大きな光を見た

 

今日から主日の福音朗読はA年のマタイに戻ります。イエスが洗礼を受けて四十日の断食を終えた後に、ガリラヤで宣教を始めたという出来事が記されています。

洗礼者ヨハネはヨルダン川の近くの荒れ野で宣教しながら生活していました。イエスも出家してヨハネの近くにいたのでしょうか。ヨハネが捕らえられてガリラヤに帰られたのは自分の身にも危険が及ぶと思われたのかもしれません。ガリラヤのナザレはイエスの家族が住んでいたところです。ルカではヨセフとマリアがもともと住んでいたところとされていますが、マタイではベツレヘムからエジプトに避難してから住んだことになっています。いずれにしても故郷の近くのカファルナウムで宣教を始められたということです。

 

イスラエルが北王国と南王国に分裂したあと、サマリアを首都とする北王国はエルサレム神殿から離れて新しい聖地を設け、また他国から来た人々が多く住むようになって異国の宗教も持ち込まれたため、ユダヤの人々からは異教徒とみなされるようになりました。ガリラヤも旧北王国の一部だったので「異邦人のガリラヤ」と表現されています。イエスの時代には南のユダヤから入植者が多く住むようになってユダヤ教が広まっており、会堂も存在したのですが、それでもエルサレムの人々からは「田舎者」「異教徒の土地」と見下されていたようです。イエスがガリラヤから宣教を始めたのは、そのような見捨てられた土地の人々から教えを広めたいという思いがあったのではないでしょうか。「暗闇に住む民は大きな光を見た」という言葉はそのことを表しています。

イエスは「天の国は近づいた」と言って宣べ伝え始められたということです。マルコの福音では「神の国は近づいた」と書かれています。マタイ福音書はユダヤ人キリスト者に向けて書かれたものなので、「神の国」というとイスラエルの王国のことと混同されるからこの表現にしたともいわれています。「神の国」という言葉は最近評判がよくないですが、特定の宗教や国家から始まるのではなく、イエスはもっと広い意味で語られています。来週からの福音でその具体的な内容が示されます。

 

短い形の朗読では読まれませんが、後半にはイエスが漁師のシモン・ペトロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネを弟子にする場面があります。先週のヨハネの福音とは違う内容ですが、ヨハネの福音では洗礼者ヨハネがイエスに引き継ぐ役割をしていたことが強調されているため、そのように表現されているようです。

彼らはイエスの呼びかけにすぐ従うのですが、イエスがどのような方かをまだ知っていません。「知らない人についていってはダメ!」と言いたいところですが、ここには「わたしがあなたがたを選んだ」というイエスのメッセージが現れていると考えられます。

わたしたちも自分からイエスを選んだと思っているかもしれません。でもほんとうはイエスのほうからわたしたちを呼んでくださったのです。          (柳本神父)