1月24日・年間第3主日マルコ1章14~20節わたしにはどう呼びかけられるのか

今日も先週に続き、イエスが弟子を招かれる箇所です。先週はヨハネの福音で、アンデレは洗礼者ヨハネの弟子であったことになっていましたが、マルコの福音では漁をしているときにイエスから招かれています。それぞれ、イエスと弟子とのかかわり(そしてわたしたちとのかかわり)がどのようなものであるかを違った側面から説明しているといえるでしょう。

最初の年間はイエスの宣教生活の記念であると前回に書きましたが、洗礼を受けられ、宣教を始められたイエスはまず弟子を集められます。イエスは神の子ですから、ひとりでも宣教ができたはずですが、弟子を招くことによって、宣教が共同体として行われることを表しています。もちろん、後をまかせるために集めたという意味もあったと思います。

共同体として歩むことには困難が伴います。12人の弟子たちの職業は漁師や徴税人、ルカは医者であったといわれています。性格もさまざまで、優柔不断な性格が伺えるペトロ(失礼ながら!)、頑固なヤコブ、熱心党(熱血的愛国者)のシモンなど、一緒にいるだけでもいさかいが絶えなかったでしょう。それでもイエスは弟子たちとともにいることを選びました。それは、イエス自身も弟子とともにいることによって、励まされ、いやされることもあったからだと思います。

教会共同体も同じです。いろんな性格の人、いろんな考え方の人が集まっています。ときにはいさかいも起こるかもしれません。けれども、弟子たちも、わたしたちも、イエスの呼びかけに従ったという共通点をもって一致しているのです。

イエスは彼らを招くときに、ひとりひとり声をかけています。大勢の前で、「私の弟子になりたい人は集まりなさい」と呼ばれたのではありません。しかも、漁師であった二人には「人をとる漁師にしよう」と声をかけられました。これは、彼らの個性を尊重した呼びかけだったのではないでしょうか。もし、彼らが農民だったら「神の国を育てる農夫にしよう」と言われたかもしれませんし、商人だったら「天の国を扱う商人にしよう」と言われたかもしれません。自分の仕事に当てはめてみたり、現代のビジネスをしている人にはどう言われるか、と考えてみたりするのもおもしろいですね。

イエスは「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言われました。そして、自分は羊のために命を捨てる羊飼いである、とも。そこには、羊と羊飼いの一対一の関係があります。イエスはわたしとかかわるとき、わたしのことを考え、わたしにいちばんいい方法で導いてくださいます。そのかかわりをすべての人と持ってくださるのです。

イエスから「わたしについて来なさい」と言われているのは弟子たちだけではありません。わたしたちひとりひとりに呼びかけてくださっています。イエスはわたしにはどのように声をかけて招いてくださっているのでしょうか。(柳本神父)