1月29日 年間第四主日 マタイ5章1~12節a 天の国はその人たちのものである

 

今日の福音はイエスの説教の場面です。これは「山の上に登られた」ということから、「山上の説教」あるいは「山上の垂訓」と呼ばれています(ルカの福音では逆に山を下りて話されたことになっています)。また、今日の箇所は「幸い」について八つの項目で書かれていることから、「真福八端」とも呼ばれてきました。

 

八つの幸いと呼ばれている人のあり方を見てみると、大きく二つに分かれます。第一のグループは世間で一般的に不幸だと考えられている人々です。「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「義に飢え渇く人々」「義のために迫害される人々」の四つです。「心の貧しい人々」というと愛や情けのない冷たい人々のイメージがありますが、原文の意味は「霊において貧しい人々」で、心を満たされることを切望している人々のことである、と言ってもいいのではないでしょうか。なお、ルカでは単に「貧しい人々」となっています。

第二のグループは正しいことを行う人々で、「柔和な人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」です。第二のグループの人々が幸いだというのはわかりますが、第一のグループの人々について、普通は幸いとは言えません。悲しんでいる人に「あなたは幸いだ」と言っても慰めにもならないでしょう。

ではなぜイエスはそのような人々は幸いだと言われたのでしょうか。まず、実際にイエスの言葉を聞くために集まってきた人たちには貧しい人、罪びととされている人、異邦人、体の不自由な人や病気の人(彼らはさすがに山を登ることは難しかったでしょうが)が含まれていたと考えられます。ひょっとするとそのような人々が中心だったかもしれません。律法の規定を守れない彼・彼女らは神から遠い者とされ、宗教的にも社会的にも排除される存在でした。それは第一のグループの人々です。そのような人々にイエスは「あなたがたは「幸いである」と言われたのでした。

ではなぜ幸いなのでしょうか。それは続く言葉に答えがあります。悲しむ人は慰められる。義に飢え渇く人は満たされる。それはだれによって?もちろん神によってです。それで教会はこの世で苦しくてもあの世で幸せになれる、と伝えてきました。貧しい人々が多かった時代にはせめてもの慰めだったかもしれませんが、一方ではこの世の不公平を放置してきた歴史があります。しかし、イエスの思いはもっと現実的なものだったでしょう。

そこで第二のグループの人々が必要となります。彼らはこの世に正義と平和を実現する人々です。第一のグループの人々のために働く人々であるといってもいいでしょう。

 

八つの幸いの中に「天の国はその人たちのものである」という言葉が二回出てきます。「天の国」は死後の世界ではなく、この世の「神の国」のことです。つまり、「幸いな人々」とは、この世において神の国に招かれた人々、神の国の実現のために奉仕する人々のことなのです。                          (柳本神父)