1月30日 年間第4主日 ルカ4章21~30節 聖書の登場人物とわたしたち

今日の福音は先週の続きです。イエスがイザヤの預言を朗読して教えられたあとの出来事です。先週の福音では会堂内の人々はイエスの言葉に驚き、感心しているようなので、今週のイエスと対立する内容とはつながらないようにも思えます。おそらくナザレにおける別々の出来事が組み合わされたものだといえるでしょう。

 

人々がイエスを受け入れなかった理由は二つあると考えられます。第一の理由は「この人はヨセフの子ではないか」という言葉に表されています。ここには、少し小ばかにしたようなニュアンスが感じられますね。それは、「わたしたちがよく知っている、あのヨセフの息子が偉そうに教えている」というようなニュアンスです。これが他所から来た人だったら「すばらしい預言者だ」と受け入れたかもしれません。つまり、人々はイエスのことを「よく知っていた」という先入観によって受け入れることができなかったのです。

第二の理由は先週の福音にあった「貧しい人に福音を」というイエスの教えを受け入れられなかったことであるといえるでしょう。会堂に集まっていたのは比較的恵まれていた人々でした。貧しい人や体の不自由な人は会堂に入ることもできず、罪人として排除されていました。そのような人々を優先したイエスも排除されるべき存在だったのです。

イエスは貧しい人や罪人には優しく接し、金持ちや権力者には厳しい態度を示されました。会堂内の人々の態度はそのような人々の立場を代表しているといえるでしょう。

しかし、彼らの態度はわたしたちにも当てはまります。わたしたちも誰かのことを、「よく知っている」という先入観で見てしまいます。たとえば自分の子どもがきらりと光る言葉を言っているのに「どうせいつものことだ」と聞き流してしまうかもしれません。また、自分の嫌いな人や苦手な人がすばらしいことを行っているのを認めたくないという思いもあります。イエスが言われた「預言者は故郷では歓迎されない」とはこういうことなのではないでしょうか。

そして、わたしたちは困っている人、苦しみを受けている人のことを忘れ、あるいは見ないようにしています。先進国に住むわたしたちは、豊かさを当たり前のこととして生活しています。その意味ではわたしたちも聖書に出てくる金持ちや権力者の仲間なのです。

 

わたしたちが聖書を読むとき、二千年前の遠い昔、遠く離れたイスラエルの出来事として読んでいます。しかし、そこに記されている人間の姿はわたしたちと同じです。

たしかにイエスは権力者たちによって十字架刑に処せられました。しかし、ほんとうは「ユダヤ人がイエスを十字架につけた」のではなく、「わたしたちの罪によって十字架につけられた」のです。一方で、イエスに従った弟子たち、イエスにいやされた罪人の姿もわたしたちの姿です。聖書の登場人物を一方的に非難し、あるいは称賛するのではなく、わたしたちの一面として受け止める必要があるのではないでしょうか。  (柳本神父)