10月8日 年間第27主日 マタイ21章33節~43節  ぶどう園の極悪人はだれか

 

今日の箇所は先週の続きです。やはり祭司長や長老をはじめとするユダヤの指導者に向けて語られたたとえ話です。

 

先々週から三週続けて「ぶどう園」が出てきます。わたしは「ぶどう園三部作」と呼んでいます。「尾道三部作」みたいですね。あ、ご存じないですか。

それはともかく、今日の第一朗読のイザヤの預言に記されているように、「ぶどう園」はイスラエルを象徴していると考えられます。あるいは、ユダヤの指導者たちが牛耳っていたエルサレムと考えることもできますね。ただ、前の二回はイスラエルやエルサレムのことというよりも、神の国を表しているとみることもできます。

ぶどう園の労働者は前の二回に比べると極悪人に描かれています。それにしてもこの労働者たち、あまりにもひどい悪党ですね。それに対してぶどう園の主人は人がよすぎますね。あれだけ多くのしもべが殺されているのだから、こちらとしても「おいおい、いい加減に気づけよ」と思ってしまいます。けれども、主人はさらに自分の一人息子を送るのです。他のたとえのように、この主人は父なる神を表しています。先々週の福音に「わたしの気前のよさをねたむのか」ということばがありましたが、この主人の人のよさはまさに神の気前のよさを表しているのではないでしょうか。そしてその気前のよさは、ご自分のひとり子をこの世に送ってくださった神の愛だということができます。

イエスはこのたとえに続いて「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」という詩編を引用して語られます。建築家が「こんな石は建物にはいらない」と言って捨てた石の場所が基準となって建物が建ち始める、という内容です。建築家が建てようとしていたのはこの世の神殿、そして捨てられた石から建てられた建物は神の家であるといえます。これは、社会から見捨てられた人々から神の国が始まることを表すと同時に、イエスご自身のことも表しているといえるでしょう。まさにこの世で捨て石となったイエスは新しい神の家の親石となられたのです。逆に、イスラエルの指導者たちが自分の権威と利権のよりどころとしていたエルサレムの神殿は、のちにローマ軍によって破壊されてしまうのでした。

 

ぶどう園の労働者たちは、主人の一人息子を殺してぶどう園を自分たちのものにしようとたくらんでいました。神から預かっていたものを私物化しようとしたのです。たしかにそれは、イスラエルの指導者たちがエルサレムの神殿や神の教えを私物化していた姿と重なるかもしれません。しかし、彼らだけに責任を押しつけていいのでしょうか。現代のわたしたちも神から預かっている世界を私物化しようとしているのではないでしょうか。わたしも罪によってイエスの受難に加担しています。けれども父は、そんなわたしたちのために愛をもってひとり子を送ってくださったのです。          (柳本神父)