12月10日 待降節第二主日 マルコ1章1節~8節 肉なる者は、主の栄光を見る

 

先週の福音は「王であるキリスト」と「待降節」を橋渡しする内容でしたが、今日の福音でいよいよ洗礼者ヨハネが登場すると、主の到来が近いという感じになりますね。実際には洗礼者ヨハネが洗礼を授けていたときにはイエスはもう生まれていたわけですが、まだ公に神の国の福音を告げる前だったので、わたしたちもヨハネの導きに従って救い主を迎える準備をするということです。

 

洗礼者ヨハネは第一朗読で読まれるイザヤの預言の「荒れ野で叫ぶ者の声」として表されています。その声は「荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ」と呼びかけます。典礼聖歌394番「主の道をそなえよ」はここから作詞されていますが、神学校時代、この聖歌の「すべての谷は埋められ、山と丘とはみなならされ」という歌詞を聞いて「日本列島改造論みたいやなあ」と言い合ったのを思い出します。現代から見ると自然破壊的な内容のようにも感じられますが、もちろん山を低くして谷を埋めるというのは象徴的な表現であって、神と人との間を隔てているものを取り除き、ストレートに神を見ることができるということです。

ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けていました。この洗礼は現在の教会の洗礼のように水をかけるのではなく、全身を水に浸たす「浸礼」というべきものです。現在でもバブテスト教会では浸礼が行われているようです。これによって体を清めるだけでなく、いったん水に沈められることで古い自分から新しい自分に再生するという意味がありました。わたしも頭までは浸からないものの、お風呂に行くことでリフレッシュされているかな?ときどき銭湯の水風呂で頭まで浸かっている人を見かけますが禁止されているところもあるので注意が必要です。いずれにしても、キリストの死と復活にあずかるという意味がある秘跡の洗礼とは異なるものの、救い主を迎えるための「悔い改めの洗礼」でした。

「悔い改め」は悪かった自分を改め、よい自分に変わることのように考えられがちですが、イスラエルの言葉では「場所を変える」「向きを変える」という意味だそうです。それで「回心(心を回す)」という言葉が同じ意味で使われています。「心を入れ替える」とよく言われますが、持って生まれた心を入れ替えることはできません。けれども、心を向きなおすことはできます。神に背を向けていた心を神の方に向きなおすことによって、神の光に照らされて新たな歩みを始めることはできるのではないでしょうか。

 

イザヤの預言で述べられている、神と人とを隔てているものは何でしょうか。それは罪と悪だといえるでしょう。「肉なる者」=人間が見ることのできなかった「主の栄光」は、救い主の到来によって見ることができるようになったのです。それは救い主キリストが罪と悪に打ち勝たれることによって実現しました。洗礼者ヨハネが宣べ伝えた悔い改めは、まさに救い主の方に心を向けるようにという宣言だったのです。     (柳本神父)