12月3日 待降節第一主日 マルコ13章33節~37節 目を覚ましていなさい

 

今日から典礼暦年は2024年に入ります。主日の朗読箇所はB年となり、福音は主にマルコから取られることになっています。待降節は文字通り「降誕を待つ」ときですが、今日の福音は終末を準備する内容となっています。

 

今日のテーマは「目を覚ましていなさい」です。このことばは11月12日の十人のおとめの話にも出てきました。今日のたとえの「主人としもべ、門番の話」のパターンもよく似ています。ですから、イエスの今日の福音は降誕を準備する待降節よりも終末主日にふさわしいみことばのように思えますね。

「目を覚ましていなさい」と言われると、わたしなんぞはしょっちゅう居眠りをするので身につまされます。とくに午後の会議は苦行です。指名されてとんちんかんな答えをしてしまうこともありますが、知らないうちに寝てしまっているのでこればっかりはどうしようもありません。シエスタ(お昼寝時間)のある国がうらやましいです。

それはともかく、待降節の福音として今日の福音を味わってみましょう。イエスの時代、イスラエルの人たちは救い主の到来を心待ちにしていました。ローマ帝国の属州として支配され、ローマ帝国が任命したヘロデ王が国を治めていたからです。しかし、救い主は人々の知らないとき、知らない場所でこの世に生まれていました。幼子に出会ったのはルカによると羊飼いたち、マタイによると占星術の学者たち。ほかにはいなかったようです。実は彼らは夜中も「目を覚ましている」人々でした。みんなが寝ている夜中にも羊飼いたちは目を覚まして羊の番をしていましたし、占星術のたちは夜を徹して星を調べていました。それで救い主と出会うことが出来たのです。

今日の福音の「主人」は「いつ帰ってくるかわからない」ので、世の終わりにふたたびこの世に帰ってこられるイエスを表しているのは明らかです。また、この福音の箇所は弟子たちの「世の終わりはいつ来るのですか」という質問に対する答えの結びにあたるので世の終わりについてのたとえであることは間違いありません。しかし、旧約時代の人々が救い主を待つ思いをこの箇所に重ね合わせて考えることもできるでしょう。

 

わたしたちは一年の典礼暦を通して救いの歴史を追体験します。待降節は救い主の誕生を待つ、旧約の時代にあたります。しかし現代に生きるわたしたちが待っているのは世の終わりにふたたび来られる救い主、再臨の主です。その意味では今日の福音は先週の「王であるキリスト」と「待降節」を結ぶ福音であるといえるでしょう。

世の終わりは神の国の完成です。神の国はイエスが宣べ伝えられた「貧しい人への福音」が実現するときです。旧約の人々が待ち望んでいたのはイスラエル王国を復興する王としての救い主でしたが、わたしたちが待つのは神の国の王です。そのために、常に心は神の国を待ち望む心に目覚めながら、救い主の到来を準備しましょう。  (柳本神父)