2月12日 年間第6主日 マタイ5章17~37節 神のいつくしみを求める人々は幸いである

 

今日の福音も先週の続きの箇所です。今日の箇所はとくに律法についての教えが中心となっています。ユダヤ人キリスト者に向けて書かれたマタイの福音書において、旧約聖書の教えとイエスの教えとの関係は重要なテーマだったと考えられます。

ここでイエスは「律法や預言者を廃止するために来たのではない」と言われます。「律法」は旧約聖書の創世記~民数記のモーセ五書、「預言者」はイザヤ書やエゼキエル書などの預言書のことです。つまりこれらは旧約聖書を表しています。イエスは旧約聖書の教えの根本にある、神と人とのかかわりを完成するために来られたということです。

 

山上の説教はひと続きの説教ではなく、イエスがさまざまな場面で語られた教えをまとめたものと考えられています。今日の福音の箇所は、内容から考えておそらく律法にこだわる人々に向けて語られた教えであると思われます。しかし、

イエスが語られる内容は少し極端なようにも思えます。人を殺さなくても「ばか」「愚か者」というだけで裁かれると言われます。ほんなら「アホ」はいいのか、というと、関西では「アホ」は誉め言葉なので許されるのです。もちろん冗談です、すみません。でもだれでもけんかして「ばかやろう」と言ったり思ったりしたことはあるでしょう。また、姦淫しなくても、みだらな思いで女性を見たら姦淫の罪になるということです。それどころか、目や手がつまずきの元となるならえぐりだし、切り捨ててしまいなさいと言われます。少しどころかあまりにも極端ではありませんか。しかし、実際に体の一部を切り落とすことは無理なので、人間は罪をもって生きざるを得ないことになります。

このみことばをファリサイ人や律法学者など、宗教的エリートの人々に語られたと考えるとどうでしょうか。彼らは律法の規定を守って生活していることに誇りを感じているだけでなく、律法を守らない、あるいは守れない人々を罪びととして見下し、排除していました。それでイエスは「あなたがたは律法に反する罪を犯していないと誇っているが、心で罪を犯しているではないか。だから人を裁いてはならない」と諭されたのです。そして、罪びととされていた人々にはいつくしみのまなざしを向けられたのです。

 

イエスは「一切誓いを立ててはならない」と言われました。正しく生きると誓うことはいいことだと思いませんか。しかし、人間には絶対ということはありません。絶対な存在は神のみです。ですから、「誓いを絶対に破ることがない」と言うことはできないのです。同じように、「絶対罪を犯すことはない」こともありえません。だからイエスは「自分は罪人ではない、立派な人間だ」と思っている人に対して「罪を犯すなら切り捨ててしまいなさい」と言われたのではないでしょうか。

大切なことは、罪びとである自分の弱さを認め、神のいつくしみを求めることです。先週の福音の「心の貧しい人々」とはそういう人のことなのです。     (柳本神父)