2月26日 四旬節第1主日 マタイ4章1~11節 世界中の洗礼志願者とともに歩む

 

22日の灰の水曜日から四旬節が始まりました。四旬節というと復活祭までの準備期間として犠牲をささげ、節制するときでもあります。しかし、それが目的なのではありません。

有名なリオのカーニバルは四旬節の前に行われます。わたしは行ったことがありませんが、宝塚歌劇ではよく題材に使われていて、それなりに雰囲気を味わったことはあります 。その一つ、「ノバ・ボサ・ノバ」は名作でした。カーニバルが謝肉祭と呼ばれるのは、以前は四旬節にお肉が食べられなかったからです。四旬節の節制の前に思いっきり食べて飲んで騒ごう、ということですね。でもそれでは四旬節が単なる「お肉を食べない期間」「我慢する期間」になってしまい、本当の意味が分からなくなってしまいます。

 

では四旬節の本当の意味は何でしょう。もちろんイエスの受難を黙想するときであり、そこから節制や犠牲への心、回心へと導かれます。また、この世において苦しみを受けている人々のことを思い起こします。そして、洗礼志願者とともに歩むときです。四旬節第一主日(または第二主日)に洗礼志願式を受けた人は、四旬節の典礼を通して「清めと照らし」の期間を歩みます。信者も復活祭に向けて洗礼志願者とともに準備を進めていきます。そうはいってもどの教会にも洗礼志願者がいるわけではありません。そのような場合でも、全世界に洗礼志願者がいることを思い起こしながら四旬節を歩むのです。

今日の福音はイエスが四十日の断食をされる場面です。そこでイエスは悪魔の誘惑を受けられます。神の子であるイエスのところに悪魔が訪ねて来るというのも不自然ですが、人間の心に起こる誘惑を表していると考えられます。そこでの三つの誘惑はいずれも神から人間を遠ざけようとするものです。パンの誘惑はこの世のいのちだけにこだわる心、飛び降りろという誘惑は神を試そうとする心、そして三番目の富の誘惑、これはわかりやすいですね。イエスはそれらに対して申命記の言葉をもって答えられます。いずれの誘惑も神を大切にする心をもって退けることができるということを表しています。

イエスは誘惑を退けられましたが、弱いわたしたちは誘惑に負けそうになります。けれどもイエスはわたしたちを代表してそれを退けられたのですから、イエスに結ばれることによってわたしたちも誘惑に打ち勝つことができるという希望が与えられるのです。

 

先日、わたしはスマートフォンを洗濯してしまいました。幸い安価で交換してもらえましたが、銭湯や鹿の写真をはじめ、多くのデータがリセットされてしまいました。最初はがっかりしていましたが、そのうちに仕方ないか、とあきらめるようになりました。いつまでも過去の思い出だけにこだわっていても仕方がないということなのでしょう。

イエスは亡くなられたのちに復活されましたが、洗礼も過去の自分から新しい自分に生まれ変わるための秘跡です。わたしたちもキリストともに死に、新しい生き方にリセットするために、全世界の洗礼志願者とともに四旬節を歩むのです。     (柳本神父)