3月12日 四旬節第3主日 ヨハネ4章5~42節 水を飲ませてください

 

四旬節の第3~第5主日は洗礼志願者の「清めと照らし」のための典礼が行われます。洗礼志願者のいないミサでも、世界中の洗礼志願者と心を合わせて典礼を行います。聖書朗読も洗礼志願者のために選ばれた朗読箇所となっています。今日の福音はサマリア人の女性とイエスの出会いの出来事です。

 

以前にも説明したように、サマリア人とユダヤ人は敵対関係にありました。戦争をしていたわけではありませんが、交わらないようにしていました。イエスはそのようなサマリア人の女性に声をかけられました。イエスはユダヤ人でしたから、それは絶対にしないはずのことでした。それで彼女は「サマリアの女のわたしに、どうして」と言ったのです。

イエスはなぜ女性に声をかけたのでしょうか。イエスは旅に疲れて座っていたということですから、ほんとうに水が飲みたかったのでしょうか。イエスと弟子たちはファリサイ派の人々を避けてユダヤからガリラヤに向かう途中であったということなので、精神的にも疲れていたのかもしれません。しかし、そこでの出会いを通してイエスはこの女性とサマリアの人々に自分が何者であるかを明らかにされていきます。

なぜこの箇所が洗礼志願者の準備のために選ばれているのでしょうか。たしかに入信の秘跡はイエスとの出会いの秘跡ですからふさわしいといえるかもしれません。しかし、大切なのは出会いから信仰に至るプロセスなのだと思います。

サマリア人の女性にはイエスのほうから声をかけられます。洗礼志願者も自分で信仰を選んでいるようにみえても、そこにはイエスの招きがあります。そして「水を飲ませてください」と言われたのは、彼女が水を汲んでいたからです。そのようにイエスはチャンスを見つけて声をかけてくださいます。たとえばわたしが銭湯で頭を洗っているときに、隣からイエスが「シャンプーを貸してください」と言われるかもしれないのです。

サマリアの女性の場合は彼女が悩んでいること、求めているものを引き出し、それにこたえる形で自分が何者かを明らかにされていかれたのです。

大切なのはそのあと、この女性が「わたしのことを言い当てた人がいます」と町の人に伝えに行ったことです。これは宣教にあたることですから、堅信を表しているといえるでしょう。このように、この一連の出来事は洗礼志願者の歩みと重なるのです。

 

さらに注目すべきなのは町の人々が「もうあなたが話してくれたからではない」と言っていることです。冷たい言葉のように思えるかもしれませんが、これは女性に対する感謝の言葉です。彼女は宣教者でしたが、イエスと人々をつなぐ役割でした。町の人々がイエスを迎えることによって彼女の役割は果たされたのです。

洗礼志願者だけでなく、わたしたちみんなこのプロセスを歩み、イエスを伝える使命を受けています。四旬節はその歩みを新たにするときなのです。      (柳本神父)