3月19日 四旬節第4主日 ヨハネ9章1~41節 シロアム―遣わされた者―

 

今週の福音も洗礼志願者のために選ばれている箇所です。A年の今年は目の見えない人がいやされる奇跡が朗読されます。その内容は単に目が見えるようになる、といういやしの奇跡で終わるのではありません。そこからイエスはどのような方なのか、という信仰の問いに広がる出来事であるといえるでしょう。

 

東大寺の近くに「しろあむ」という喫茶店があります。わたしは喫茶店に行く習慣がないのでまだ入ったことはありませんが、以前から気になっていました。するとその家の表札に「池」と書いてあるではありませんか。「あ、しろあむの池だ!」と気づきました。ひょっとすると店主の方はクリスチャンで、「池」という名字からお店の名前を「しろあむ」にしたのかなあと想像していますが、機会があれば聞いてみたいものです。

目の見えない人はイエスの指示によってシロアムの池で目を洗い、見えるようになったのですが、そのあと、ファリサイ派の人々のところに連れていかれます。このあと、ファリサイ派の人々と目が見えるようになった人、そしてイエスとのやりとりが行われます。

ファリサイ派の人々は、目の見えない人のいやしの出来事を、イエスを非難するために利用しようとします。イエスの行動が安息日に禁じられている労働にあたると考えられるからです。ここでは目の見えない人を非難し、罪びと扱いしています。本来ならば目が見えるようになったことを一緒に喜ぶべきなのに。そして、最後には追放してしまいます。

彼は自分の感じたままを答えただけでした。彼にとって真実は「イエスを通して目が見えるようになったこと」であり、それを告げただけでした。そして彼は次第にイエスが「神のもとから来られた方」であると思うようになり、最後には「主よ、信じます」とイエスがだれであるかを悟ります。心の目でもイエスが見えるようになったのです。

このプロセスは先週のサマリアの女性と共通しています。どちらもイエスとのやり取りの中で、次第にイエスがどのような方であるかを知るようになるのです。

 

わたしたちも同じです。突然イエスが現れて、「わたしが救い主であるから信じなさい」と言われるわけではありません。言われたとしても「なんや、このおかしな人は」と思ってしまいそうですね。実際はイエスとの小さな出会いから始まって、心の中でイエスと対話していく中で、次第に「主よ、信じます」という信仰に育っていくのです。これはまさに洗礼志願者のプロセスであるといえるでしょう。洗礼を受けた方も受けていない方も同じです。確信をもって「信じます」と言えなくても大丈夫。最後にはかならずイエスの姿が見えるようになります。

「シロアム」は「遣わされた者」という意味でした。目が見えるようになった人が言うようにイエスご自身が「神から遣わされた者」ですが、サマリアの女性も目が見えるようになった人も人々のもとに遣わされたのです。そして、わたしたちも。  (柳本神父)