3月26日 四旬節第5主日 ヨハネ11章1~45節 イエスによって死からいのちへ

 

四旬節第3主日から第5主日まで洗礼志願者のための福音朗読箇所が選ばれています。今日はラザロの復活の箇所です。ラザロはマルタとマリアの兄で、イエスはこの三人と親しくされていました。その親友のラザロが危篤だという知らせから始まります。

イエスはなぜそれを聞いたときにすぐに行かなかったのでしょうか。間に合わなくても生き返るから大丈夫、と思っていたわけではないでしょう。イエスはこの世においてはわたしたちと同じ人間として生活されていたので、未来に何が起こるかを考えながら行動されていたのではないはずです。おそらく直面している大切な用事があったのでしょう。いやしを必要としている人とのかかわりを優先していたのかもしれません。

 

わたしたちも同時に二つ、あるいはそれ以上のことをすることはできません。今年は二つの幼稚園の卒園式が重なってしまい、体が二つあったらいいのに、と強く思いました。イエスもラザロのところに早く行かねばと思いつつ、目の前の人々のことを見捨てることができなかったのではないでしょうか。

それでイエスが着いたときにはラザロは墓に葬られたあとでした。四日たっていたということですから、二日同じところに滞在され、さらに二日以上の道のりを歩いて行かれたようです。ようやく到着したイエスは、マルタに迎えられ、家の中でマリアや来ていた人々が泣いているのを見て「心に憤りを覚え」られたと記されています。これは心がかきむしられるような思いを表しています。親しい友の命を奪った死の力に対するやり場のない怒りといってもいいでしょう。わたしたちにもそのようなつらい目にあったとき、「うわーっ!!」と叫びたくなるときがあります。イエスも人間としてそのような思いを表されました。ラザロの復活についてのイエスの言動の部分だけを読むと、落ち着いて語られているように感じますが、その陰にはこのような激しい感情の動きがあったのです。

このように、イエスはわたしたちの思いに強い共感をもって父なる神に取り次いでくださいます。ですから、わたしたちも遠慮なくイエスにお願いすることができるのです。

 

この福音の箇所が洗礼志願者のために選ばれているのは、一度死んで生き返ったラザロの姿が、罪に死んでいのちに生きる洗礼志願者の姿と重なるからです。「死ぬ」というと大げさに聞こえるかもしれませんが、わたしたちは常に、過去に死んで現在に生きています。人間の体も、古い細胞が死んで新しい細胞に置き換わることによって生き続けることができます。ラザロは生き返りましたが死なない体になったわけではありません。その意味では、ラザロの復活も他のいやしの奇跡の延長上にあると考えられるでしょう。

わたしたちにとって大切なことは、イエスとのかかわりによって新しいいのちが与えられるということです。四旬節はその思いを新たにするときです。そうすることによって、イエスの復活の喜びにより深くあずかることができるのです。     (柳本神父)