4月23日 復活節第三主日 ルカ24章13~35節 エマオへの道で起こったこと

 

復活節第二主日と第三主日の福音朗読は復活したイエスと弟子の出会いの物語となっています。今日はエルサレムを離れてエマオに向かった弟子たちの旅にイエスが合流された出来事を通して主の復活の意味を考えます。

 

今日の福音にはいくつかの謎があります。第一の謎は弟子たちがイエスだと分からなかったことです。復活後のイエスは全く違う姿だったのでしょうか。それとも変装していたのでしょうか。以前この箇所について書いたときに、松阪のシスターテレサの質問に「ヒゲ剃っていたんじゃないですか?」と答えた話を紹介しましたが、もちろんその程度の変装ではバレてしまいますね。おそらく「分かる」「分からない」はイエスと弟子たちの関係性を表していたのではないかと思います。つまり、彼らは最初、イエスは死んで遠くに行ってしまったと考えていて、イエスの復活を信じていなかったということです。

次の謎はイエスがパンを裂いて渡されたときにイエスだと気づいたのはなぜか、ということです。これは最後の晩さんの記憶がよみがえったのでしょう。イエスは極限状態の中で別れの食事としてなさったわけですが、弟子たちにとっても思い出深い出来事でした。「これをわたしの記念として行いなさい」というイエスのことばがここに実現しているということです。最後の晩さん後の最初のミサだったと言えるかもしれません。

そしてイエスだと分かったときに姿が見えなくなりました。これも謎ですね。しかし、イエスがパンをご自分の体として与えられたのだとすれば納得できます。イエスは彼らの心の中に来られたのですから、姿が見えなくなるのは当然のことだといえるでしょう。

彼らはすぐに出発してエルサレムに戻りました。故郷に帰るのをやめて他の弟子たちのもとに戻ることにしたのでしょう。それはイエスと出会ったこと、つまりイエスが復活したことを真っ先に伝えるためでもありました。

この一連の出来事はミサを表しているといわれます。イエスが聖書について教えられたのはことばの典礼です。そしてパンを裂かれたのは感謝の典礼です。さらに彼らが主の復活を告げるために出発したのは閉祭の派遣を表しているように思います。

また、弟子たちとイエスの出会いと交わりを表しているともいえます。最初、イエスが弟子として招かれたとき、彼らはイエスがどのような方かを理解していませんでした。しかし、イエスの教えを受けながら徐々に理解していきます。そして「姿が見えなくなった」のは昇天、「心は燃えていたではないか」と感じたのは聖霊降臨を表しています。

 

わたしたちもイエスと出会い、みことばをいただき、パンを裂く集いに参加することによってイエスとのかかわりを深めていきます。そしてわたしたちも主の死と復活を告げ知らせるために派遣されているのです。                 (柳本神父)