5月7日 復活節第五主日 ヨハネ14章1~12節 もっと大きな業を行うために

 

今日の福音もヨハネから選ばれています。最後の晩さんのときにイエスが語ったとされることばが13章から17章までの長きにわたって記されています。十字架につけられる前のことなので、これから起こる受難と復活のこと、そしてそのあとイエスが去ったあとのことなど、事が起こる前に弟子に伝えておきたいというイエスのことばです。

 

今日の福音の前半は葬儀や追悼ミサでよく使われる箇所です。「住むところがたくさんある」「場所を用意したら…あなたがたを迎える」ということばが死後の居場所を思い起こさせるからでしょう。たしかにこのことばは親しい人をあの世に送り出す方々にとっては希望のことばであるといえます。あの世に行っても住むところがあるということは安心ですね。イエスが用意してくださる家なら住み心地は最高に違いありません。

けれども、イエスはここでそのことだけを言われているのではありません。このあとイエスはご自分と父の関係を語られます。

ヨハネの福音書でイエスは「父と子との関係」についてたびたび説明されています。ここもその一つです。弟子たちはまだイエスと父の関係を理解していなかったので、彼らの神のイメージは、イエスが父と呼ぶように教えられたイスラエルの神でした。それでフィリポが代表して「御父をお示しください」と願います。しかしここでイエスは「私が父の内におり、父がわたしの内におられる」と言われます。イエスと父が一つであることを宣言されているのです。ですから、イエスを見ている弟子たちはすでに父を見ていたということです。

イエスが「父のもと」に行かれるのは直接的には昇天を表しているといえます。受難を前に、弟子たちがこれから起こる出来事に動揺しないように、そのあとのことをあらかじめ伝えられたのでしょう(それでも弟子たちは動揺し、失望してしまうわけですが)。

そうすると、「場所を用意したら、戻ってきて」というイエスのことばは「昇天と聖霊降臨」であるとも考えられます。イエスは父のもとに昇って行かれたが、聖霊としてこの世に戻ってこられたということもできるからです。

 

最後に言われている「わたしが行う業を行い」とは宣教のことだと考えられますが、「もっと大きな業を行う」と言われるのはどういうことでしょうか。弟子たちやわたしたちはイエスよりも大きな業を行うことができるのでしょうか。

これは、イエスが天に帰られたあとの宣教を表していると考えられます。イエスが伝えた神の国の福音を大きく広げていくことはわたしたちにゆだねられているからです。けれども、それは聖霊の働きによって成し遂げられます。聖霊に助けられてわたしたちはイエスの業を受け継ぎ、神の国の完成に向けて歩んでいくのです。      (柳本神父)