7月16日 年間第15主日 マタイ13章1節~23節  実を結ぶのは何のため?

 

先週のマタイ11章から朗読箇所では12章が省略されて今日の箇所に続きます。今日の福音の内容は「種を蒔く人のたとえ」です。

種についてのたとえ話は福音書にたびたび出てきます。来週の「毒麦のたとえ」も関連する内容です。ただ、多くの場合は「からし種のたとえ」のように大きく育つ神の国のありさまを表していますが、今日と来週は少し違う内容です。どちらかといえば、神の国よりも、個人の生き方についてことがたとえられているようです。

 

しかし、ちょっと疑問に感じるのは、18節以降のたとえの説明に記されているように、種が人間を表しているのだとすれば、蒔かれた場所によって種が育って実るかどうかが決まるように言われていることです。それでは人は環境によって神のみことばを育てられるかどうかが変わってしまうように思えますね。それは不公平ではないでしょうか。

一方、種は人間ではなく、みことばを表しているとの解釈もあります。そうするとみことばを受け入れる人間は、土地であるということになります。いったいどっちでしょうか。

わたしはいつもこの原稿を書くときには幸田司教さんの「福音のヒント」を参照しています。わたしは聖書学の専門家ではありません。しかし、幸田司教さんはわたしの二年先輩で、聖書やギリシア語に詳しいので、当時の歴史的背景や言葉の意味などをよくご存じです。それで間違った説明をしないように参考にさせていただいています。

今日の箇所についても、エレミアスという学者の説を紹介されています。それによると、イエスのたとえはもともとイエスの行いや教えに疑問を持つ人々に対して語られたもので、当時の人々にとっては納得できるものでしたが、初代教会ではその意味がわかりにくくなっていたようです。それで、後半の説明が福音書に加えられたのだということです。これは、イエスの教えに余分なことが付け加えられたというよりも、たとえを聞く立場の人が、群衆やファリサイ派のような人々から、初代教会の信者や弟子たちに変わっていたということでした。初期のキリスト信者は自分たちの生き方の指針として、たとえを生かしていったのです。そこで種と土地に対する別の考え方が出てきたのではないでしょうか。

 

しかし、忘れてはならないのは、種はたくさんの実を実らせるということです。これはどちらの考え方にも共通します。残念なのは、「身を実らせる」ことが、個人に与えられる恵みだと思われてしまうことです。ネット上でもそのような説明をよく目にします。しかし、実が個人に与えられた恵みだとすると、その人が満たされて終わってしまいます。けれども、実は鳥や動物、人間に食べられていのちの源となります。そして落ちた種はあちこちで芽を出し、育っていきます。それでこそ実る意味があるのです。神の国の福音も人を通して広がります。やはりこのたとえも神の国を表していたのです。 (柳本神父)