8月13日 年間第19主日 マタイ14章22節~33節  恐れることはない―司教の紋章―

 

先週は「主の変容」でしたが、今日は年間に戻り、イエスが湖を渡る場面です。冒頭にかっこ付きで書かれているように、先週読まれる福音は通常ならばパンを増やす奇跡の箇所でした。そしてイエスは弟子たちを先に舟で対岸に向かわせたあと、ご自分は群衆を解散させてから一人で祈られます。

 

いつも書いていますが、弟子たちが「幽霊だ!」と驚くこの箇所が読まれるのがお盆の近くなのは偶然でしょうか。季節柄ふさわしいように思えます。こう暑いと怪談噺の一つも聞いてぞっとしたくなりますよね。でも実際は幽霊ではなくイエスだったのですが、たしかに暗い湖の上を歩いてくる人影があったら幽霊かも!と驚くことでしょう。

イエスの奇跡の大半は病気を治したり、悪例を追い出したりという「いやし」の奇跡ですが、今日の奇跡は超自然的な現象に属するものだといえます。カナの婚宴で水をぶどう酒に変えた奇跡、パンを増やす奇跡、嵐を静める奇跡、そして先週の変容もこれにあたるかもしれません。イエスがどうやって水の上を歩いたか、本当に歩いたのかはわかりませんが、大切なことは「わたしだ、恐れることはない」ということばです。

大塚司教の紋章の図柄は船ですが、船体には「Ego sum, nolite timere」というラテン語が書かれています。これはまさにこのことばです。イエスは幽霊だと思った弟子たちに「幽霊ではないから恐れることはない」と言われたようにも思いますが、それよりも「わたしがいるから恐れることはない」という意味の方が強いのではないでしょうか。

弟子たちは逆風に悩まされ、進みかねていました。「舟で対岸に渡る」ことは見知らぬ土地へ行くことを表しているという解釈もあります。また、イエスが先に行かせたことは、10章の弟子たちの派遣と関係があるかもしれません。イエスがいない弟子たちにとって、湖上での逆風は、不安と恐れそのものだったのかもしれません。また、これまでの箇所の流れを考えると、宣教の困難さや迫害に遭遇していた初代教会のキリスト者の状況が反映していたとも考えられます。

船や舟はたびたび共同体や教会を象徴するものとして表されます。大塚司教の紋章の船も京都教区を表しています。教会共同体も、その一員であるわたしたちも、ときには恐れと不安の中で過ごすこともあるのではないでしょうか。迫害とまではいかなくても、戦争や紛争が続く世界、貧富の差や差別、排外主義がはびこる社会の現実を考えると、神の国にいたる道のりの険しさに心が折れそうになります。その意味ではわたしたちも荒波に妨げられている状態だといえるかもしれません。

 

そんなわたしたちのところにイエスは来て「恐れることはない」とおっしゃいます。そしてわたしたちの舟に乗り、対岸へと導いてくださいます。恐れと失望のときには、司教の紋章を思い出しましょう。                     (柳本神父)