1月28日 年間第四主日 マルコ1章21節~28節 神の国の福音の目に見えるしるし

 

今日の福音はマルコによるイエスの宣教のはじめの出来事です。イエスは悪霊に取りつかれている人からそれを追い出されます。マルコでは1章から3章にかけていくつかのいやしの奇跡が記されていますが、この出来事もその一つだといえるでしょう。

 

マルコの福音を読んでみると、いやしの奇跡と宣教が並行して述べられている印象を受けます。ということは、宣教といやしはセットであるということですね。では、今日のエピソードにはどのような意味があるのでしょうか。

イエスの時代、医学や科学が未発達な状況の中で、「悪霊に取りつかれた」というのは悪霊のしわざというよりも、原因の分からない病気や精神疾患で理解できない言動や行動をとってしまう人々のことだと考えることができます。日本でも「狐憑き」などと呼ばれていました。上から読んでもキツネツキ、下から読んでもキツネツキですね。そのような人々は家族から隠され、社会からは疎外され、隔離されていました。また、一般的な病気や体の障害であっても社会参加が大きく制限されてしまいます。さらにその原因は罪の報いであると考えられていました。現代からするとひどい話のように思いますが、今でも「病気になるのは精進が足りないせいだ」とか、今回のような災害が起きると「助かったのは日頃の行いがよかったからだ」などと言ってしまいます。しかしイエスはそのような考え方を完全に否定されたのです。

テレビやインターネットのコマーシャルでは健康に関するものがあふれています。わたしもそうですが、年齢を重ねるとどこかしら、体の不調が表れてくるものです。つらい、しんどいに加えて、「人に迷惑をかけてしまう」「働けなくて申し訳ない」といった思いがどうしても浮かんできます。そして何より社会から離れてしまうという疎外感に見舞われてしまいます。「健康が一番!」と言いたくなるのはわかりますが、病気になるのはそれほど悪いことなのでしょうか。

イエスの宣教は、まず貧しい人々や体の不自由な人、病気の人、罪びととされている人々に向けて行われました。そこで「あなたがたは幸いである」「あなたがたは地の塩、世の光である」と告げられたのです。最初に神の国の福音を聞くことができたのはそのような人々でした。いやしの奇跡は「あなたがたは社会から疎外されているかもしれないが、神の国では中心にいるのだ」というしるしです。イエスの福音を目に見える形で表されたのがいやしの奇跡だったということができるでしょう。

 

イエスの奇跡から2000年たった今、社会福祉や人権に対する考え方は進んできました。その一方でお金や健康にこだわるあり方は根強く存在しています。貧富の差はイエスの時代よりも大きくなっているかもしれません。イエスの福音といやしの奇跡はそのような現代社会のあり方を変える力を持っているのです。          (柳本神父)