1月7日 主の公現 マタイ2章1節~12節 幼子の光は異邦人の上に輝き出る

 

みなさん、あけましておめでとうございます。日本の教会では1月2~8日の間の日曜日に主の公現が祝われますが本来は6日です。今年は一日違いですね。今日の福音はマタイの福音から占星術の学者の訪問の箇所が読まれます。毎年同じ個所なので、去年と同じ原稿でもいいはずですが、今感じていることを分かち合いたいと思います。

 

マタイの福音ではルカの福音とは違う形でのキリスト誕生物語となっています。幼子を訪ねて来たのは羊飼いではなく占星術の学者です。そしてみなさん意外に気づかれていませんが、学者が訪ねたのは馬小屋ではなく「家」と記されています。

ずいぶん昔のことですが、ある教会のクリスマスで、「ミサの前に『うまやしき』があります」と言われました。「え?馬小屋じゃなくて馬屋敷?」と思ったのですが、よく聞いてみると「うまや(厩)式」でした。ミサの始めに幼子の人形を納めて祝福することだったのです。教会ではそこに学者を置くことが多いので、馬小屋に訪ねて来たと思われるのでしょう。教会学校のプリントの絵もイメージを壊さないように馬小屋にしましたが。

公現の意味は読んで字のごとく「公(おおやけ)に現れる」ことです。しかし公といっても占星術の学者だけですね。むしろ、公現はイエスの宣教のはじめの方がふさわしいのではないでしょうか。たしかに日本語のイメージではそうでしょうが、もともとのギリシア語には「輝き出ること」という意味があります。救い主の誕生によって主の栄光が輝き出たことを表していると考える方がふさわしいでしょう。そのように考えると、学者たちが星の輝きによって救い主へと導かれたことは象徴的です。彼らは異邦人でしたが、輝きの源を求めてはるばる遠い国から訪ねてきました。

ユダヤ教では占いは固く禁じられていました。占星術も占いですから、彼らも忌むべき異教徒と考えることもできます。一方、星の動きや配置によって季節や自然について調べる天文学者だったかもしれません。いずれにしても、まことの神を知らない彼らが星の輝きに照らされて救い主と出会ったことは、神の救いが異邦人にまで及ぶことのしるしでした。このことは、第一朗読のイザヤ書にも美しいことばで記されています。ぜひ福音と合わせて味わってください。

 

ベツレヘムを遠く離れた日本にいるわたしたちが、こうして主の降誕の喜びを祝うことができるのも、公現の出来事の一端だといえるでしょう。学者たちは国に帰ってからきっと幼子のことを家族や周りの人々に伝えたに違いありません。羊飼いもそうでしたが、彼らは宣教者の役割を果たしました。公にキリスト教が伝えられる前にその下地を作ったといえるのではないでしょうか。

わたしたちも救い主と出会った喜びを家族や周りの人々と分かち合うことによって、その人たちがキリストと出会う下準備をすることができるのです。     (柳本神父)