2月4日 年間第5主日 マルコ1章29節~39節 病人が表す「もてなし」の使命

 

今週も先週に続き、マルコの福音からいやしの奇跡です。シモン・ペトロのしゅうとめさんがいやされた出来事を通して、イエスのいやしのあり方について考えてみます。

 

シモン・ペトロのしゅうとめということは、ペトロの奥さんの母親ということになります。ペトロは結婚していたということですね。妻をおいてイエスに従ったのか、とちょっと心配になりますが、しゅうとめさんはペトロの家にいたということですから、一族で暮らしていたのかもしれません。彼女の熱はどのような病気によるものなのかは書かれていません。一時的なものだったのか持病があったのかは不明ですが、イエスが呼ばれたことを考えると重い症状だったのではないでしょうか。

先週の福音はイエスが悪霊を追い出された奇跡でしたが、いわゆる「病気」も悪霊のしわざと考えられていたようです。その意味では、イエスが熱を去らせたのは悪霊を退けたと考えられたかもしれません。この奇跡のあとにもイエスが大勢の人の病気をいやし、悪霊を追い出したことが記されています。

興味深いのは、いやされたしゅうとめさんが「一同をもてなした」ということです。まわりの人々がイエスに望んだのは、いやされること、つまり熱を下げてもらうことだったはずです。しかし、彼女はいやされるだけでなく、みんなをもてなします。「病み上がりだから安静にしていなさい」と言いたくなりますが、これはどういうことでしょうか。

しゅうとめさんの「もてなし」とは、どんなことだったでしょうか。女性の「もてなし」なので、お茶やお菓子を給仕すると思われがちですが、ここで思いだすのが2019年の司教年頭書簡「教会の《もてなし》の使命」です。そこでは外国の人たちを迎える「もてなし」と合わせて福音に奉仕する「もてなし」の必要性が強調されています。わたしも久しぶりに読みましたがコロナの前だったんですね。時のたつのは早いものです。

実際のところ、しゅうとめさんは給仕でもてなしたのでしょうが、彼女は直前まで病人でした。病人は世話を受ける立場です。そのような人が、人々をもてなす立場になったということです。

わたしたちの社会では人の世話になることを迷惑なことと考える傾向があります。しかし、人と人がともに生きるのが社会です。そこではおたがいに世話をし、世話をかけなければ生きていけません。「困ったときはおたがいさまよ~」という赤い羽根共同募金のコマーシャルがありますが、困ったときに限らず、すべてはおたがいさまなのです。

 

ペトロのしゅうとめさんの身内や近所の人々は、彼女の病気のおかげでイエスと出会い、いやしの奇跡を体験することができました。しゅうとめさんは、みんなの心を一つにする奉仕をしていたともいえます。これが彼女の最高の「もてなし」でした。わたしたちも、どのような立場にあっても「もてなし」ができるのです。        (柳本神父)