3月24日 受難の主日 マルコ11章1節~10節および15章1~39節 どちらが王の姿なのか

 

今日から聖週間が始まります。その始まりの日曜日は受難の主日です。枝の主日というほうがなじみ深いかもしれませんが、エルサレム入城の栄光は受難の始まりでもありました。それで今日はエルサレム入城の福音と受難の朗読の両方について述べたいと思います。

 

入堂前に読まれる福音はイエスがエルサレムに入られる場面です。そのときに乗られたのはロバでした。ふつう人が乗るのは馬です。でも馬は気性が荒く、戦いにも用いられます。それに対してロバはおとなしいので農耕や荷物を運ぶときに使われます。京都教区の某神父はロバを思わす風貌だったため、神学校時代には同級生から「エルサレム入城」と言われていたそうです。そのロバは柔和で従順な動物のため、キリスト教では平和の象徴とされています。ということはほめ言葉なのかも。いずれにしてもイエスがロバを選ばれたのは平和の王であるということを表しているようです。

町の人々はイエスをメシア、王として迎えました。受難の主日が「枝の主日」と呼ばれるのは、人々が枝を持って歓迎したことを記念して、枝を持って入堂するからです。しかしミサ中の福音は受難の朗読です。同じ日に対照的な二つの福音が朗読されるのですが、果たしてどちらがイエスのほんとうの姿なのでしょうか。

聖金曜日にはヨハネの福音が読まれますが、受難の主日は年によって異なります。今年はB年なのでマルコの福音です。受難の朗読を大きく分けると、前半がイエスの裁判、後半が十字架刑の場面です。裁判でピラトはイエスのことを「ユダヤ人の王」と呼んでいます。ユダヤは当時ローマ帝国領だったので「ユダヤ人の王」と称する者はローマ帝国に対する反逆者ということになります。ユダヤの指導者たちの最高法院は「イエスはユダヤの王と自称した反逆者だ」と言って訴えたのですがイエスは自分でユダヤの王だとは言っていません。ピラトは最初イエスを処刑するつもりはなかったので「ユダヤ人の王」はピラトのユダヤ人指導者に対する皮肉が込められていたのかもしれません。いずれにしても政治的なやり取りの中で、イエスは犠牲となったのです。これは現代においても、社会の利益や権力の犠牲となっていのちを奪われる人々の姿と重なるといえるでしょう。

 

ローマ帝国の迫害時代に描かれたとされる落書きに、ロバの頭の人物が十字架につけられているものがあります。キリスト教徒を皮肉って描かれたものだと言われています。ここではイエスと思われる人物がロバそのものになっています。ロバはおとなしく従順な性格ですが、一方では「どんくさい、みじめな動物」とみられていました。ローマの人たちやユダヤ人の指導者たちは十字架刑に処せられたイエスのことを、従順に仕事を押し付けられるロバのようにみじめな存在だと考えていたのでしょうか。しかし、それこそがイエスの王の姿を表しています。今日の二つの福音は、別々の場面から、ともにイエスがどのような王であるかを示しているといえるのではないでしょうか。     (柳本神父)