3月31日 復活の主日 マルコ16章1節~7節、ヨハネ20章1節~9節 空の墓から始まる

 

みなさん、主の復活おめでとうございます。復活祭は夜半のミサ(復活徹夜祭)と日中のミサで別々の福音が読まれます。共通する内容でもありますので、両方の福音から主の復活について考えてみましょう。

 

夜半のミサは3年ごとに変わり、B年の今年はマルコの福音です。日中のミサは毎年同じ、ヨハネの福音書です。どちらも復活の朝の出来事が述べられていますが、共通するのはイエスの墓の石が取り除かれていて中にイエスの遺体がなかったことです。違っているのは墓を訪ねた女性の人数、マルコでは天使が表れたこと、弟子のもとに告げに行かなかったことなどです。

いずれにしても、復活祭に読まれる福音だというのに、イエスは登場していません。少なくともことばの祭儀においては主役のいないお祝いです。結婚式の披露宴で新郎新婦がまだ登場していないのに、二人の席に向かって「結婚おめでとう!」と言っているようなものですね。でも出席者はまだ見ていないだけで二人の結婚は成立しています。このことは復活についてもいえるでしょう。イエスは復活されたのですが、婦人たちや弟子たちはまだ姿を見ていません。でもそのときすでに復活しておられるのです。イエスは神の国を婚宴にたとえられたので、わたしもまねをしてみましたがいまいちでしょうか。

婦人たちや弟子たちはイエスの復活の瞬間を見ていません。最初は空の墓から、マルコの福音では天使の伝言、そしてその後マグダラのマリアや婦人たち、弟子たちに現れます。これらの出来事は復活節の福音で読まれます。こうしてイエスの復活への期待は確信へと変わっていくのです。今日の福音の「空の墓」は彼、彼女らが復活のイエスと出会うプロセスのスタートなのです。

このことは婦人たちや弟子たちだけでなく、すべての人にとっても同様です。イエスは復活されたのですが多くの人はそのことを信じていません。「イースター」「復活祭」ということばは結構知られるようになりましたが、その意味はまだまだ知られていませんし、まして復活による救いということは理解されにくいと思います。けれども、イエスの復活による救いの実現はすべての人に及ぶ出来事なのです。

 

現代に生きるわたしたちはイエスの復活を見ていません。復活されたイエスの姿にも出会っていません。しかし、復活のイエスはわたしたちの心の中で出会うことができます。また、イエスの福音のみことばの中で出会うこともできます。それを喜びと感じるなら、その喜びをまわりの人々と分かち合いましょう。

今年はコロナ後初めての復活祭です。新たな気持ちをこめて主の復活をお祝いしましょう。そして奈良ブロックで洗礼を受けられる3人の方々とともに、「空の墓」から始まった復活のイエスとの出会いを深めていきましょう。           (柳本神父)