4月14日 復活節第3主日 ルカ24章35節~48節  食事、そして派遣

 

復活節第2主日と第3主日の福音では復活したイエスが弟子たちに現れます。エマオに向かう弟子たちがイエスと出会ったあと、エルサレムの弟子たちのもとに戻るのですが、そのあとにイエスがみんなの前に現れる場面が今日の朗読箇所です。

 

今日の福音はルカによるものですが、この前のエマオへの途上で二人の弟子に現れる出来事はルカだけに記されています。マルコでは一言、二人の弟子に現れたと書かれています。今日の箇所もルカだけにありますが、ヨハネでは先週の福音の前半、トマスがいないときにイエスに現れた箇所がこれにあたると考えられます。

二人の弟子がエマオに向かっていたということは、イエスが処刑されたことに失望して故郷に帰ろうとしていたのでしょうか。しかし、イエスと出会ったので急いでエルサレムの弟子たちのもとに戻ります。そこへイエスが現れます。彼らは亡霊だと思ったようです。当時のイスラエルでは亡霊、幽霊を信じていたのでしょうか。そこでイエスは自分が生きているということを示すために魚を食べられました。

このイエスの行為は不思議ですね。先週の福音のトマスには受難の際の傷をしめして自分であることを知らされたので、何もみんなの前でわざわざ魚を食べなくてもいいのに、と思います。教会学校のプリントにもこの場面を描いたのですが、ちょっとおかしな絵になりました。しかし、ヨハネの福音でペトロたちが漁をしているときにも「子たちよ、何か食べるものがあるか」と聞き、漁をさせます。そして魚がいっぱいとれたあと食事をされます。さらにイエスと出会った二人の弟子も、食事のときにイエスだと気づきます。どうやら復活と「食べる」ことには関係があるとしか考えられません。

「食べる」ことは生きるための行為です。けれども、人類はそこに特別な意味を見出してきました。食事の前に祈り、また「いただきます」と感謝するのは、食べ物が神からの恵みであることを感じているからでしょう。そして、機会あるごとに一緒に食事をすることは特別な関係を共有することでもあります。好きになった人を食事に誘ってオーケーされたときには「やったー!」と思いますね。イエスも弟子たちや親しい人との食事を大切にされました。それで「徴税人と食事をしている」と非難されたこともあります。イエスが最後の晩さんをミサの始まりとされたのもイエスと弟子たち、そしてわたしたちが特別な関係にあることを示しているのでしょう。

 

イエスとの食事はそれで終わりではありません。イエスと食事をした二人の弟子は時を移さず出発してほかの弟子のところにイエスの復活を伝えに行きました。今日の福音でもイエスは宣教を命じられます。ヨハネの福音の漁のあとの食事が終わってからもペトロに「わたしに従いなさい」と言われます。わたしたちもミサの食事でイエスと特別な関係に結ばれて、「行きましょう」と社会に派遣されるのです。        (柳本神父)