4月21日 復活節第4主日 ヨハネ10章11節~18節  羊飼いは羊を知っている

 

復活節第4主日と第5主日の福音は、イエスとわたしたちの関係を述べる内容となっています。これらはイエスがエルサレムに入られる前に語られたものですが、復活を通して考えるとより深く味わえるみことばです。

 

復活節第4主日は毎年ヨハネの10章から、羊と羊飼いの話です。でも同じ箇所ではなく、A年は1~10節、C年は27~30節が読まれます。その間にユダヤ人指導者とのやりとりがありますが、10章は「羊飼いの章」といってもいいでしょう。いずれもイエスが羊飼い、わたしたちが羊の立場であるという内容です。

羊と羊飼いの話は子どもたちにもわかりやすいのでたびたび幼稚園でお話しします。それで「羊、見たことある?」と聞くと何人かの子が「あるー!」と答えるので、「どこで?」と聞いてみたら「宇陀アニマルパーク!」でした。彦根の幼稚園では「ブルーメの丘!」だったので地域性が表れていますね。

羊の群れを見るとどれもみな同じように見えますが、羊飼いには見分けがつくそうです。それは、羊飼いはしじゅう羊と生活を共にしていて、いつも羊のことを第一に考えているからです。羊のほうもそれに応えるかのように羊飼いを見分けます。日中の牧草地や夜に羊たちが休む囲いの中には他の羊飼いが飼っている羊の群れも来ているのでごっちゃになっている状態ですが、羊はちゃんと自分の羊飼いについていくそうです。わたしも奈良公園の仲良し鹿の「ほくちゃん」をはじめ、何匹かのなじみの鹿がこっちを見てやってくるのを見ると、少しは羊飼いの気持ちがわかるような気がします。

そして良い羊飼いのイエスは一匹一匹の羊のことを考えているばかりか、羊のためにいのちを捨てます。そこまでするのか、と思いますがもちろんこれは十字架上の死を表しています。この福音が復活節に読まれるのもそこに意味があるといえるでしょう。さらに、弱い羊を襲う狼に対して身を挺して立ちはだかる羊飼いの姿は、貧しい人や罪びとを守るために命がけで正義を貫いたイエスの姿に重なります。十字架はイエスのそのような態度に対してこの世の権力が動いた結果であるからです。

 

イエスは「この囲いに入っていないほかの羊もいる」と言われます。これはどのような人々のことなのでしょうか。イエスの囲いとはイエスの弟子たちを中心とする仲間のことなのでしょうか。あるいはわたしたちの教会のことなのでしょうか。いずれにしても「その羊も導かなければならない」と言われているのは宣教を表していると考えられます。

先週の福音にあるように、イエスは復活して弟子たちに現われたときに、宣教する使命を与えられました。今日の福音にもそれが表れています。そうして羊の群れが一つになったとき、この世に神の国が完成します。羊飼いの声を聞いた羊であるわたしたちは、羊の群れを一つにするために囲いの外に派遣されていくのです。       (柳本神父)