4月28日 復活節第5主日 ヨハネ15章1節~8節  ぶどうは何のために実るのか

 

先週は羊飼いと羊の関係を通してイエスとわたしたちの関係を述べられました。今日はぶどうの木を通してそれを語られます。今日と来週の箇所はイエスが最後の晩さんの席上で話された教えです。

 

ぶどう園はイエスがたびたびイスラエルを表すものとして、たとえで使われています。しかし、ここではイエスご自身がぶどうの木とされています。おもしろいのは父なる神が農夫にたとえられていることです。どちらかといえばイエスが農夫でぶどうの木が父というイメージのほうがしっくりくるようにも思います。おそらく農夫はぶどう園の主人であり、ぶどう園が世界を表すとすれば、「手入れ」するというのは創造主のイメージからきているのではないでしょうか。

みなさんはぶどう狩りをなさったことがありますか?わたしは三重県にいたとき、教会の青年たちとぶどう狩りに行ったことがあります。ちょうど名張教会の青年が農協の関係者だったのでちょっと割引がききました。ぶどう園のぶどうの木はちょうど切りやすいように、人の背の高さになるように育ててあるらしいですね。でもあまり熱中すると腰にくるのでどうぞご注意を。

イエスがこのたとえで伝えたかったことは、ぶどうの枝のように「イエスにつながって実を結ぶ」ということですね。では実を結ぶということはどういうことでしょうか。まず考えるのは神さまのお恵みをいっぱいもらうということですね。イエスという木から栄養をたくさんもらって身を実らせることができるのはすばらしいことです。伝統的に教会ではそのイメージで語られてきたように思います。しかし、それで終わりではあまりにもったいないのではないでしょうか。

ではぶどうは何のために実るのでしょうか。自分を誇るためでしょうか。いや、ぶどうの立場からすれば、できるだけおいしくなるように実を結び、鳥や動物、さらに人間に食べてもらって種を蒔き散らしてもらうことによって子孫を残し、増やすことができるのです。ぶどう狩りも食べてこそ価値があります。食べるほうも喜び、ぶどうの木も喜び、そしてその喜びの種は別のところで実を結んで喜びは広がっていきます。これはまさに神の国の広がりを表しているといえるのではないでしょうか。

 

この福音が復活節に読まれるのはそこにポイントがあると思います。イエスは復活した後に弟子たちに現れ、彼らに福音を告げ知らせる使命を授けられました。そのためにはイエスと結ばれている必要があります。そのしるしが聖霊降臨でした。ヨハネの福音では、弟子たちに直接聖霊を与えられていることからそれがわかります(ヨハネ20章22節)。

そして父はこの世から悪の枝を摘み取り、よい枝を生かしながら手入れすることによって、わたしたちの世界を神の国へと導かれるのです。          (柳本神父)