4月7日 復活節第2主日 ヨハネ20章19節~31節 トマスの疑いは不名誉なことなのか

 

復活の主日から第二主日までを「復活の八日間」といいます。復活祭の大きな喜びは八日間続き、その締めくくりが今日です。初代教会では受洗者が洗礼の際にいただいた白衣をこの日まで着けるので、白衣の主日とも言われてきました。また、教皇ヨハネ・パウロ二世によって、この日を「神のいつくしみの主日」と定められました。第一朗読、第二朗読は三年ごとに変わりますが、福音は毎年同じでイエスがトマスに現れる場面です。

 

先週の福音でイエスはまだ登場していないと書きましたが、今日は登場します。最初は弟子たちが集まっているところへ、そして次はその場にいなかったトマスがいるときに現れます。今日の福音の主人公はなんといってもトマスでしょう。あ、もちろんほんとうの主人公はイエスなのですが、大切な役割を果たすのはトマスです。しかし、トマスは「けっして信じない」と言い張り、八日後にイエスと出会ったときには「信じる者になりなさい」と言われます。このため、トマスは「疑い深いトマス」と不名誉な呼び名をもらうことになります。せっかくの復活節なのに彼は毎年イエスに叱られていますね。それどころか、7月3日の自分の祝日にさえもこの福音が読まれます。きっと天国の弟子たちの間では「ほらほらトマス、またあんたが叱られる場面が読まれとるで」「おらんかったし、しゃあないやんか!」などと会話が交わされているかもしれませんね。しかし、トマスはほんとうに疑っていたのでしょうか。自分もイエスに会いたいという気持ちが「けっして信じない」という言葉に表れていたのではないでしょうか。

イエスは一方的に弟子たちに教えを述べられたのではありません。弟子たちとの会話の中でそれに答える形で福音を、そしてご自分がだれであるかを伝えていかれます。四旬節第四主日の福音でイエスが語られた、ご自分の受難が神の愛によるものであるという教えも、弟子ではありませんがファリサイ派のニコデモの質問に対しての答えでした。

学校の授業で、よく「間違うことによって憶える」と教えられた記憶があります。弟子たちもときには間違い、ときには理解できないことを質問することによって、イエスから教えてもらいました。今回のエピソードも、トマスの疑いにイエスが応えた内容だということになります。トマスが「見ないと信じない」と言ったからこそ、イエスは「見ないのに信じる者は幸いである」と、教会の信仰に続く教えを語られたわけですし、トマスも「わが主、わが神よ」というすばらしい信仰宣言をすることができたのです。

 

わたしたちもときには疑い、ときには間違い、ときには教えに反することをしてしまうことでしょう。けれどもそんなわたしたちに応える形で復活のイエスは語りかけてくださいます。その体験はわたしだけでなく、他の人にも喜びを及ぼします。ということは、トマスの疑いとイエスの𠮟責もけっして不名誉なものではなく、イエスの復活をあかしするエピソードなのです。天国のトマスは照れ笑いしているかもしれませんが。(柳本神父)