5月5日 復活節第6主日 ヨハネ15章9節~17節  人のために命の一部を使う

 

今日の福音は先週の続きです。ぶどうの木のたとえを受けてイエスはその教えをさらに深められます。先週は、ぶどうが実るのは自分のためではない、ということを説明しましたが、その結論がここにあるといってもいいでしょう。

 

「わたしの愛にとどまりなさい」という言葉は「枝がぶどうの木・イエスにつながっている」ことの結果です。ということは、ぶどうの実は愛の実りであるということになりますね。イエスにつながっていることによって、わたしたちはイエスの愛にとどまることができるのです。

そこでイエスは互いに愛し合うことを「掟」「命令」として伝えられます。なんだか命令と言われると愛を強制されているように思います。しかしイエスは「わたしがあなたがたを愛したように」と言われます。これを前提と考えると、すでにわたしたちはイエスの愛をいただいていることになります。「命令」とは、わたしたちの心の中のイエスの勧めということができるかもしれません。そして「掟」といえば旧約の掟である律法を思い起こします。ユダヤ人は律法を守ることが神に従うことであるとしてそれを守ってきました。しかしイエスはそれに代わるものとして、愛の掟を与えられました。「今までの律法の掟」に対して「互いに愛し合う」ことが神に従うしるしであることを示されたのです。

それに加えて「友のために命を捨てること」が至上の愛であると伝えられます。もちろん、これはわたしたちのために十字架上で命をささげたイエスの姿を表しています。ではわたしたちは命を捨てることができるでしょうか。たしかに、殉教者は信仰のために命をささげました。コルベ神父は身代わりを申し出て餓死刑に処せられました。現代ではそのような機会はまずないですし、あったとしても命を差し出す勇気があるかどうかはわかりません。けれども、「命」をささげるのは死ぬときのことだけではありません。わたしたちにはこの世の寿命があり、限られた時間を生きています。その中で、時間を人にために使うのは命の一部を捨てることだと言えるのではないでしょうか。

 

わたしたちがこの世に派遣されたのは、一人で生きるためではありません。「互いに愛し合う」ためには人とのかかわりが必要です。でも、そのかかわりは楽しいものばかりではありません。多くの人々が人間関係に悩んでいます。わたしも見かけによらず気を遣うほうですので、何か問題があったときには「どのように対応しよう、どのように答えよう」と思いわずらいます。「人のことを気にしない性格がうらやましい」とも思います。  しかし今回、この福音についてお風呂につかりながら考えていたとき、人のことで考え悩むときには自分の命の一部をその人のために使っているのだということに気づきました。ということで人間関係に悩んでいる皆さん、それは人のために命を使っている愛の行為だと考えることもできるのです。敵を愛されたイエスのように。      (柳本神父)