6月30日 年間第13主日 マルコ5章21~43節 タリタ・クム、起きなさい

 

先週の福音ではイエスと弟子たちは「向こう岸」であるゲラサ人の地方に渡りました。そこでは悪霊に取りつかれていた人をいやされます。そこは異邦人の住む地域でした。その後、再び舟でナザレ方面に戻ります。今日の福音はそのときの出来事です。「会堂長」はユダヤ教の会堂の長なので、その一帯はユダヤ人の地域でした。会堂長の娘のところに行く間に出血症の女性がいやされるという二つの奇跡が記されています。

 

この箇所で思い出されるのは、わたしが神学生のときにある教会の高校生のグループと聖書研究をしていたときのことです。そのときに用いていた聖書では「会堂長」は「会堂つかさ(会同司)」と翻訳されていました。ある男の子がその言葉に妙にこだわるのです。それでよく聞いてみると彼は伊藤つかさのファンなのでした。懐かしいですね。

さて、イエスの奇跡というと、自分の病気を治してほしいという願いに応えてイエスがいやされるということをまず考えますが、今日の二つの奇跡はそれにあてはまりません。まず、出血症の女性のいやしですが、イエスはその女性を憐れんでいやされたのではありません。女性のほうがイエスの服にでも触れればいやされると思って勝手に触ったのです。そこにはイエスの意思は存在しませんでした。それでイエスは自分の力が出ていったことで気づいて彼女を探しました。なぜイエスは探したのでしょうか。彼女が恐れていたので安心させる意味もあったでしょう。そしてイエスは「あなたの信仰があなたを救った」と告げられます。信仰といっても彼女の思い込みのように思えます。しかしイエスはその思いを聞き届けられ、それを信仰と認められたのです。つまり、イエスは素直な心で神に信頼するということが信仰の基本であることを伝えられたのではないでしょうか。

もう一つの奇跡では、会堂長の娘さんは自分の信仰によっていやされたのではなく、お父さんがイエスに願うのです。それも、最初は「手を置いてくだされば治るでしょう」とイエスを信頼していますが、その後、娘さんが亡くなったあとは奇跡をあきらめています。ここには「信仰」があるかどうかははっきりしません。それでもイエスはいやしのために行かれます。会堂長の最初の願いと信頼に応えられたのかもしれません。

イエスはこの奇跡を通して、死で命が終わることがないということを示されたのではないでしょうか。そしてイエスは会堂長や家族に「ただ信じなさい」と力強く語られます。

 

「タリタ・クム」とは「起きなさい」という意味です。この言葉は終末における死者の復活を思い起こさせます。死者の復活は、すべての人のこの世のいのちを価値あるものとして意味を与えられる出来事です。会堂長ヤイロは、自分の娘は短い人生しか送れなかった不幸な存在だと思っていたかもしれません。しかしイエスは「タリタ・クム、起きなさい」と彼女の人生の価値を告げられたのです。これは罪びとであり、汚れた存在だと思っていた出血症の女性にも与えられたイエスのメッセージでした。     (柳本神父)