7月21日 年間第16主日 マルコ6章30~34節 飼い主に見捨てられた羊たち

 

先週の福音のあとには洗礼者ヨハネの殉教のエピソードが記されています。そのあと、イエスはパンを増やす奇跡を行われるのですが、今日の箇所はそれに先立つ部分でプロローグであると言ってもいいでしょう。

 

先週は弟子たちが宣教に派遣される場面でした。彼らはその結果を残らず報告したとあるので、手ごたえのある宣教旅行だったのでしょう。そしてイエスは彼らを休ませようと、舟で出かけることにします。食事をする暇もないくらい大勢の人々がイエスに会いに来ていたようです。まだ待っている人がいるのに休みに行くのはちょっと冷たいように思いますが、体力や気力を保つためには必要なことです。マザーテレサも休息と祈りのときを持たないと活動が続けられないと、待っている人がいても時間になれば帰ったといいます。

イエスにしても弟子にしても人間の限界がありますから、当然休む必要があります。それで人里離れたところに行こうとしたのですが、人々は先回りして待っていました。

その人々の様子は「飼い主のいない羊」のようだったということです。羊はおとなしい動物なので、飼い主=羊飼いが羊を守ります。羊の群れをまとめ、昼は牧草地に連れて行って食事させ、夜は囲いの中で野獣や羊泥棒から守ります。羊飼いがいなければ羊は命の危険にさらされるのです。

イスラエルの人々の飼い主は本来、ユダヤ教の指導者たちでした。しかし彼らは律法の細かい規定を守ることにこだわり、貧しい人々や体の不自由な人々を無視していました。というのはそのような人々は律法を守ることができない上に、罪によってそういった報いを受けていると考えられていたからです。見捨てられた立場の人々は、まさに飼い主のいない羊でした。イエスはほかの箇所でも「迷った羊」「イスラエルの失われた羊」というように表現されています。一般社会でも悩む人々のことを「迷える羊」「迷える子羊」と表現するのは聖書の影響でしょう。米津玄師さんの歌にも「迷える羊」というのがありますが、演劇をモチーフとしている歌詞ですね。ちなみにわたしは最初彼のことをお坊さんか宗教者だと思っていました。「米津玄・師」なのかと。

 

イエスはそのような見捨てられた人々に「あなたがたは地の塩、世の光である」「貧しい人は幸いである」と告げられたので、人々は「これはわたしたちへの教えだ」と喜んだのではないでしょうか。

イエスのみことばを受け入れるためには、深い信仰が必要だと思ってしまいます。しかし、イエスは打ちひしがれている人々の思いに応えて神のみことばを告げられました。先回りしてイエスを待っていたことこそが信仰のしるしだったといえるでしょう。ここに神の国のありようが表れています。神の国の福音はそのような人々に真っ先に告げられたのです。わたしたちも飼い主イエスの声を貧しい人々とともに聞きましょう。(柳本神父)