7月28日 年間第17主日 ヨハネ6章1~15節 何の役にも立たないどころか

 

先週のマルコの福音の箇所の続きにはパンを増やす奇跡が行われると書きました。その通り、今日はその奇跡の箇所です。注意深い方はお気づきかもしれませんが、今週はヨハネの福音に変わっているのです。今年はB年で主日にはマルコが読まれますが、この時期にはヨハネの福音の6章が朗読されます。この後に続く「いのちのパン」の教えにつながる内容となっています。

ヨハネの福音はイエスのみことばが中心なので、他の福音書と異なる構成です。しかし、このパンを増やす奇跡の箇所はよく似ているのでスムーズにマルコからヨハネに移行しています。近鉄奈良から国際会館行きの急行に乗ったら気が付けば京都地下鉄の線路を走っているようなものですか。あまりいいたとえじゃないですね。

 

イエスのもとに集まって来た群衆は、先週の福音の「飼い主のいない羊」のような人々と考えられます。イエスはその人々に食べ物を用意しようと考えられました。まずフィリポに「どこでパンを買えばよいか」と尋ねられます。もちろん大勢の群衆のためにパンを買うにはリトルマーメイドやキャパトルが近くに何軒もあったとしても足りないでしょう。そこへアンデレが五つのパンと二匹の魚を持っている少年を連れてきます。おそらくこの少年は「パンなら持っていますよ、ほら」と差し出したのではないでしょうか。しかしアンデレは「何の役にもたたない」と帰らせようとします。彼は「足りるわけないやろ、あほちゃうか」という思いがあったのではないでしょうか。他の弟子も大人たちも同じ考えだと思います。それが社会の常識ですね。けれどもイエスはそれを受け取り、配ると全員が満腹し、さらに12のかごにいっぱいになったということです。

この出来事をミサの起源とすることもできますが、このヨハネにだけ記されている「何の役にも立たないでしょう」という言葉は重要な意味を持っています。「何の役にも立たない」と思われていた二匹の魚と五つのパンが集まっているすべての人を満腹させたのです。さらにそれらは差し出した少年の存在を表しています。つまり、常識では役に立たないと思われていた人が最も大切な役割を果たしていたということです。

役に立たないと切り捨てられている人が大きな役割を果たすところ、それは神の国です。小さなささげものをイエスが受け取り、それを配ることによってみんなが幸せになる世界です。その意味では確かにこの奇跡はミサを表しているといえるでしょう。わたしたちひとりひとりがささげる小さな心をイエスは受け取り、増やしてみんなが満たされるのはミサの奉献と聖体拝領です。

 

残ったパンは十二の籠をいっぱいにしたということです。十二はイスラエルを表す数字です。残ったパンはイスラエル全土に向けて持ち帰られ、配られたことでしょう。わたしたちも小さな心をささげることによって、みんなの幸せに役立つのです。 (柳本神父)