7月7日 年間第14主日 マルコ6章1~6節 知っていると思って見逃すこと

 

今日の福音は、章は変わりますが先週に続く箇所となっています。イエスと弟子たちはユダヤ人の住む地方に戻られ、いやしの奇跡を行われました。そして、故郷に帰り、会堂で教えられます。そのときの出来事です。

 

故郷の人々にとって会堂での出来事はショッキングでした。久しぶりに地元に帰って来たヨセフさんちのイエスくんが、えらいまた立派なことを言うじゃないか、と驚いたのです。それで感心するのですが、そのすぐ後で彼らは拒否反応を示します。その理由はイエスの家族や仕事を知っていたからです。ここでイエスの兄弟・姉妹の名前が出てきますが、いとこも含めて兄弟・姉妹と呼んでいたようです。いずれにしても故郷の人々にとってネックとなったのはイエスの血縁関係を知っていたということです。「マリアの息子で」という言葉には、マリアがヨセフと結婚する前に身ごもっていたふしだらな女性だったという意味も含まれているのかもしれません。

このように、彼らはイエスの家族のことを、偏見を持って見ていたのかもしれません。そのようなことを「レッテルを貼る」と表現されますね。わたしが子どものころはレッテルの収集が一部の友達ではやっていて、自分で瓶や缶からはがすこともありましたが、駄菓子屋さんなどでセットを売っていて、友達と交換していました。見たこともない銘柄ばっかりだったのでそのために作ったものだったのでしょうね。わたしたちは「デッテル」と呼んでいました。今では普通「ラベル」と呼びますね。

わたしたちはラベルで中身も判断します。たとえば、一万円するお酒の空き瓶に500円のお酒を入れて出したら、知らない人はラベルだけを見て「さすがに上等のお酒はうまい」と思い込むかもしれません。実際にそういうことをする詐欺まがいの居酒屋もあったそうです。逆に、安物のお酒の瓶に高級なお酒を入れて出したら「安物のお酒はうまくない」という人もいるかもしれません。そのように先入観で人を見てしまいがちです。

イエスの故郷の人々は、イエスの言葉に感心したのですが、その出自を知っていたために、それ以上イエスのことを受け入れませんでした。ましてやイエスが預言者だとはだれも認めなかったのです。

 

わたしたちも「よく知っている」と思っている人のことほどイメージで見てしまいます。家族や友達、そしてあまり好きじゃない人たち。彼・彼女らがとてもいいことをしていても、すばらしいことを話していても「どうせあの人のことだから」と思ってスルーしてしまうかもしれません。そしてイエスの故郷の人たちと同じ過ちを繰り返してしまうのです。

神はいろいろな人とのかかわりを通してわたしたちを導いてくださいます。その中にはわたし自身も含まれます。日常生活の何気ない人とのかかわり、自分自身とのかかわりからイエスとの出会いをさがしてみませんか。              (柳本神父)