2月5日 年間第5主日 マタイ5章13~16節 あなたがたは地の塩、世の光である

 

今日の福音は先週に続く箇所です。山上の説教が続きます。イエスは八つの幸いについて述べたあと、「地の塩、世の光」のたとえを話されます。

 

ここで注目するべきことは、イエスが「地の塩となりなさい」「世の光となりなさい」と言われるのではなく、「あなたがたは地の塩である」「世の光である」と断言されていることです。イエスの話を聞くために集まってきた人々は、先週にも書いたように貧しい人々、体の不自由な人々、罪びととされている人々、異邦人たちが多く含まれていたと考えられます。当時の考えでは、彼・彼女らは「地の塩」「世の光」どころか、社会的に見捨てられていた人々でした。

わたしが子どものころ、「日本れきしの光」「世界れきしの光」という本を読みました。要するに偉人伝でした。そこには、歴史の中で光を輝かせるのは教科書に載るような有名な人々であるという考えがあります。ちょっと話がそれますが、よく「前世」について語っている人がいます。自分や人のことを「わたしは聖徳太子の生まれ変わりである」とか「あなたの前世はクレオパトラね」とか言ったりしていますが、その前世はほとんど有名人です。確率からいくとほとんどの人が名もなき庶民であるはずなのに。やはり歴史的に有名な人物にあこがれる人が多いということでしょうか。

しかし、イエスは名もなき人々に「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われるのです。偉い人たちに言っているのではありません。これはイエスが伝える「神の国の価値観」を表しています。神の国においては、歴史的人物も有名人も庶民も異邦人も区別はありません。むしろ、社会で見捨てられている人々が神の国の中心です。実際、イエスが福音を告げられたのはそのような人々に対してでした。そこから神の国の福音が広まっていったのです。

もう一つのポイントは、「塩」「光」が働くために、その対象を必要としていることです。塩を使うのは料理や素材にかけられ、加えられておいしく食べることができるからです。ふつうは塩だけを食べるわけではありません。光も何かを照らすために用いられます。停電のときにろうそくをつけるのは、ろうそくを眺めるためではなく、まわりを見るためです。そのように、人も気づかれないうちに何かの役割を果たしているのです。イエスの周りに集まってきた無力と思われる人々も、「イエスの教えを聞きに来た」という大切な役割を果たしているといえるでしょう。イエスが言われる「立派な行い」とは、人目に付く善行や人から褒められる生活などに限らないということです。

 

神がわたしたちにいのちを与えられたのには意味があります。この世において神の国のために何らかの役割を与えられているはずです。それは神だけがご存知です。わたしたちが自分や人の価値を判断することはできないのです。          (柳本神父)