3月27日 四旬節第4主日 ルカ15章1~3、11~32節 ほんとうの主人公は?

 

今日の福音はみなさんよくご存じの「放蕩息子のたとえ話」です。主な登場人物は3人。父と二人の息子です。それぞれの立場を考えながらこの福音を味わってみましょう。

 

まず「放蕩息子」と言われる弟です。相続財産を先にもらい、それを無駄使いするという親不孝者です。「放蕩の限り」というのですから、バブル時代の贅沢も及ばないほどのものだったのでしょう。そして飢饉が起こり、父親のもとに帰ることを決心します。痛い目に合ってようやく気がついたということです。

父親は息子の好きにさせますが、内心は悲しさでいっぱいだったことでしょう。というのは、息子が帰って来たとき、遠く離れていたのに見つけたからです。毎日毎日、息子が出て行った先を見ながら帰りを待っていたのです。それどころか、家から出て走り寄って息子のもとに行きます。もちろんこの父親は父である神を表しています。神はわたしたちの回心を待ち望み、帰ってくるのを待たずに迎えてくださる方だということです。

私は毎朝、奈良公園を散歩するのが日課ですが、とくに鹿に会うのを楽しみにしています。その中に、よくなついてくれる小鹿がいるので「ほくちゃん」と名付けて鹿せんべいをあげて可愛がっています。小鹿は何匹もいるので最初はどれが「ほくちゃん」なのか、探し回ったものですが、最近は「ほくちゃん」のほうから見つけて来てくれるようになりました。気がつけばそばにいることもあります。まるで今日のたとえ話の父親のようではありませんか。ということは、私は放蕩息子の立場?

それはともかく、このたとえ話で影が薄いのは第三の登場人物、お兄さんです。父親を悲しませ、放蕩の限りを尽くして帰って来た弟を、父親が赦して受け入れたばかりでなく、宴会まで開いてお祝いしたのに腹を立てます。その気持ちはわからないでもないですね。父親のもとでがんばって働いている兄にしてみれば、たまにはごちそうしてくれてもいいじゃないか、と思うのは当然でしょう。

しかし、父親は兄に言います。「お前はいつも私と一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。つまり、神とともにいることが最高のごほうびであるということです。

 

今日のたとえ話は、イエスが徴税人や罪人を迎え、食事まで一緒にしていることを非難したファリサイ派の人々や律法学者たちに向けて語られています。徴税人や罪人は放蕩息子の立場ですから、彼らは兄の立場でしょう。その意味では、この話のほんとうの主人公は兄であるといえるかもしれません。

兄が家に入ろうとしなかった、ということは、こんどは兄のほうが父親から離れてしまったということです。わたしたちも弱さを持った人間ですから、ときには弟のようにこの世のものに執着し、ときには兄のように罪を犯した人を断罪します。父親である神は、そのどちらにも回心を望まれます。その意味では、みんなが主人公なのです。(柳本神父)