3月6日 四旬節第1主日 ルカ4章1~13節 主はわたしたちの分まで誘惑を退けられる

今日は四旬節初めての主日です。四旬節は洗礼志願者とともに歩むときでもあります。それで今日はミサがあるところでは洗礼志願式が行われます。四旬節の四十日間はイエスが荒れ野で断食された出来事に基づいているので、今日の福音はイエスが悪魔の誘惑を退けられる場面が朗読されます。

イエスが宣教の前に荒れ野で断食をされていると悪魔が誘惑に訪れます。悪魔の誘惑というと、真っ黒な身体にこうもりのような羽根をつけたサタンが現れて、イエスを誘惑する「悪魔が出てきてこんにちは」というような場面を思い浮かべますが(わたしも教会学校のプリントでそう描いてしまいましたが)、実際には心の中で誘惑と戦われるというようなことだったのではないかと思います。

ここでの誘惑は三つです。第一は断食で空腹になったイエスに石をパンに変えさせようという誘惑です。食べ物を求めるのはいのちへの執着を表しているといえるでしょう。いのちを守るのは大切なことですが、いのちに限りがあることを認識するのも必要です。とくに、健康志向の強い現代では、健康にはお金を惜しまない反面、病気や老いを必要以上に恐れます。今年の司教年頭書簡は「キリスト者の終活を始めよう」です。健康といのちを大切にしながら、あの世のいのちへの希望を持ちながら生きることも必要なのです。

第二は権力と富への誘惑です。これは説明の必要もないことですが、「お金持ちになりたい」「人より上になりたい」と思うのがわたしたちの現実です。

第三は神を試みる誘惑です。信仰に自信のないわたしたちは、神がほんとうに助けてくださるのか不安になりがちです。神を疑うこと自体は人間の弱さからくるものであり、罪であるとはいえないでしょう。けれども、「神を試みる」のは神と同等、または上の立場になることであり、先週の福音にあった「人を裁く」立場になるということでしょう。

これらの誘惑がどのような基準で選ばれているのかはわかりませんが、共通するのは神よりも自分を、人よりも自分を、あるいは自分の仲間だけを大切にすること、神からいただいたものを自分のためだけに使おうとすることです。これらはまさに神の思いに反することであり、神から離れようとする誘惑であるといえます。

イエスはこれらの誘惑に打ち勝たれました、わたしたちもイエスに倣うものとして、神から離そうとする誘惑に打ち勝つことが必要です。しかし、弱いわたしたちには困難なことです。そのことをよくわかってくださっているイエスは「主の祈り」の中で「誘惑に合わせないでください」と祈るように教えてくださったのです。

四旬節はイエスの十字架を黙想するときでもあります。イエスはわたしたちの罪を負って十字架に架かってくださいました、そこには、私たちの分まで誘惑に打ち勝ってくださったイエスの姿も表されているのです。                (柳本神父)