5月16日 主の昇天 マルコ16章15~20節 イエスの姿が見えなくなったのは?

イエスは復活のあと、四十日間弟子たちとともに過ごしたとされています。復活祭から四十日目の復活節第6木曜日に主の昇天を祝いますが、キリスト教国でない日本では次の主日にお祝いすることになっています。

今年はマルコの福音から主の昇天を黙想します。マルコの福音は16章8節で一応終わり、写本によっては今日の昇天のところまで記されています。マタイとヨハネの福音には昇天の記述はありません。昇天の記述のあるなしにかかわらず、いずれの福音も弟子たちに新しい使命を託して、イエスのこの世での宣教を締めくくる内容となっています。そのことから、イエスの昇天は弟子たちの派遣とセットのできごとであるといえるでしょう。

マルコの福音では、イエスは弟子たちに、福音を宣べ伝えるよう命じられます。「信じない(洗礼を受けない)者は滅びの宣告を受ける」とは厳しい言葉ですが、信者でない人は救われないという意味ではなく、イエスの福音を聞いてそれをどう受け止め、生き方に表すかが問われているということです。この世で苦しみを受けている人々を無視し、自己中心的な考えで行動する人々に、イエスは回心を促しておられます。「蛇をつかむ」「毒を飲んでも害を受けない」「病人に手を置けば治る」という言葉も、この世の悪に負けないように守ってくださるとともに、弱い立場の人とともにいるよう勧められているのです。

そのように、弟子たちに使命を与え、イエスは天に上げられ、父の右の座に着かれました。「天」というと空の上というイメージがありますが、空の上に天国があってそこに父なる神がいらっしゃるわけではありません。今のように、飛行機やロケットで空の上に行けなかった時代はそのように考えられていたのでしょう。では「天」とはどこでしょうか。

ポイントは使徒言行録に書かれている「彼らの目から見えなくなった」ということです。「天」は物理的な場所ではなく、霊的な存在です。イエスはこの世の肉体をもって生きる存在から、目に見えない霊的な存在へと移られたということなのではないでしょうか。

マタイの福音の最後はイエスの「わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる」という言葉で結ばれています。ではイエスはどのようにともにいてくださるのでしょうか。

わたしは以前、ある教会のミサの説教で小さないたずらをしました。侍者の女の子の背中イエスの切り抜きを貼り付けて、「イエスはどこに行ったか、探してみて」と言いました。当然背中のイエスを見つけることはできません。眼鏡を頭に上げて、「おい、わしの眼鏡を知らんか」というギャグがありますが、自分の一部になっているものは見えないものです。まして、心の中にあるものは見ることができませんね。

そう、イエスはわたしたちの心の中に来てくださったのです。「姿が見えなくなったのはわたしの中に来られたから」ということもできるでしょう。コロナでなかなか教会に行けない今、イエスと会いたいと思うとき、すでにイエスは来ておられるのです。(柳本神父)