5月29日 主の昇天 ルカ24章46~53節 主の昇天はハッピーエンド

 

先週にも書きましたが、本来の「主の昇天」は復活節第六木曜日、今年でいうと5月26日です。それは、イエスが復活ののち、40日間弟子たちに姿を現わしていた(使徒言行録1章3節)という記述に基づくものですが、日本では木曜日は平日のため、次の日曜日に移して祝われます。今日は第一朗読の使徒言行録とルカの福音から、主の昇天の出来事が朗読されます。そして福音の朗読箇所はルカ福音書の結びの部分です。

ところで私の弟は「昇」です。ちょうどその年の昇天の祭日に生まれたからです。その日は木曜日でした。以前は日本でも第六木曜日に祝われていたということですね。ちなみにわたしは「昭」ですが、「なんで昭と付けたん」と親に聞いたら「昭和に生まれたからや」という答えでした。「昇と比べて単純やなあ」と思ったのを思い出します。

 

さて、今日の朗読からわたしたちは二つの疑問を感じるのではないでしょうか。第一の疑問は「イエスはどこへ行かれたか」ということです。そして第二の疑問は「弟子たちはなぜイエスと別れたのに喜んだのか」ということです。

昇天だから天に昇ったじゃないか、とも思いますが、天とはどこでしょうか。空の上でしょうか。空の上に天国があるなら、飛行機やロケットで行くことができるのでしょうか。

たしかに昔は、天国は空の上にあると考えられてきました。当時、空の上は人間の行くことのできない場所であり、未知の領域でした。そして宗教的な考え方において空の上は人間界を見下ろす場所であり、神の居場所としてふさわしいと考えられてきました。しかし科学の発達した現在、そこに神はいないということがわかってきました。それではイエスはどこに行かれたのでしょうか。

大切なことは、福音の「彼らを離れ」、そして使徒言行録の「彼らの目から見えなくなった」ということです。「彼らを離れ」たということは、肉体を持った存在としては離れたということでしょう。これは物理的に離れたということです。「見えなくなった」のも同じ意味だといえるでしょう。

そこで、第二の疑問が答えになるのではないでしょうか。なぜ弟子たちは大喜びでエルサレムに帰ったのか。そう、彼らは物理的にはイエスと離れましたが、精神的にイエスと一致したのです。イエスは彼らの心の中に来られたのですから、「見えなくなった」のは当然のことだったのです。これはイエスとの新しいかかわりの始まりでした。

 

ルカの福音と、その続編とされる使徒言行録では、イエスの復活・昇天・聖霊降臨が別々のこととして記されていますが、実際には同じ出来事の異なる側面であるとも考えられます。ですから、弟子たちは大いなる喜びをもって主の昇天を受け入れたのです。ルカの福音が弟子たちの喜びで結ばれているのはまさにハッピーエンドですね。そのハッピーエンドはわたしたちにも約束されているのです。            (柳本神父)