5月9日 復活節第六主日 ヨハネ15章9~17節 愛のパワーで互いに愛し合う

ヨハネの福音では、イエスは最後の晩さんのあと、受難の前に弟子たちに最後の教えを語られます。イエスが死を前に語られるこれらの教えは、これだけは伝えておきたい、というイエスの教えの集大成ともいうべき内容です。今日の福音は先週のぶどうの木のたとえに続く箇所で「互いに愛し合いなさい」という最も大切な教えが語られます。

イエスは「父がわたしを愛したように、わたしもあなたがたを愛してきた」と言われます。これによって、父なる神→子であるイエス→わたし→隣人という愛の関係があることがわかります。ここではまず、父と子の愛の関係は、わたしたちが互いに愛し合う模範であるという意味か込められています。そして、この関係は愛のバトンタッチであるということができます。父から子に与えられた愛は、子からわたしたちに受け継がれます。わたしはそれを愛のパワーと呼んでいます。そして、わたしたちは子を通していただいている愛のパワーを使うことによって、互いに愛し合うことができるのです。

イエスは「(ぶどうの木のように)わたしにつながっていなさい」と言われました。イエスにつながっているとはどういうことか、その答えがここにあります。ぶどうの枝が木につながっていることによって実を結ぶことができるように、わたしたちもイエスとつながっていることによって愛の実を結びます。愛の実とは人を愛することです。それによって、人は神の愛を味わうことができます。ちょうど、ぶどうの実をおいしく食べることで、ぶどうの木の恵みを知ることができるように。

イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われました。これはご自分がわたしたちの身代わりとして、十字架につけられたことを表しています。わたしたちには、そこまでの大きな愛は実践できないかもしれません。けれども、愛は自分がいただいているものを隣人と分かち合うことです。その最大のものは時間であるといっていいでしょう。愛の実にはすべて時間の犠牲が伴うからです。

わたしたちに与えられたこの世の命の時間には限りがあります。自分の大切な時間を人のために使うこと、これがわたしたちにとって「命を捨てること」であり、イエスの十字架にあずかることだといえるのではないでしょうか。

それでは、神の愛を知らない人は人を愛することができないのでしょうか。決してそうではありません。神を信じない人ですばらしい愛の行為を実践される方も大勢いらっしゃいます。それは、キリスト者であるないにかかわらず、すべての人が神の子どもとして神から愛されており、愛のパワーをいただいているからです。

わたしたちにとって宣教とは、みんなが持っている愛のパワーがどこからくるかを伝えることにほかならないのです。(柳本神父)