6月19日 キリストの聖体 ルカ9章11b~17節 イエスは弟子たちにパンを配らせた

 

三位一体の主日の翌週にはキリストの聖体を記念します。聖体というと最後の晩さんの記念である聖木曜日を思い起こします。なぜ今日聖体の秘跡が記念されるのでしょうか。今日の福音の内容を黙想しつつ、聖木曜日と比較してその意義を考えてみましょう。

 

今日の福音はルカのイエスがパンと魚を増やして人々に与えた、という奇跡の出来事です。この奇跡はマタイ、マルコ、ヨハネにも記されているので、弟子たちにとって印象的な出来事であっただけでなく、大切なこととして伝えられてきたのでしょう。

聖体の主日に朗読されるのですから、この出来事が聖体の秘跡を示唆していることは間違いありません。イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱えて裂いて弟子たちに渡した」というところは最後の晩さんと共通しています。違っているのは弟子たちに配らせたということと、パンの残りが十二の籠にいっぱいになったということです。

最後の晩さんには弟子たちだけがいました。「これはわたしの体である」「わたしの血である」と言って与えられたパンとぶどう酒をいただくことによって、弟子たちはイエスと一致する恵みをいただいたのです。わたしたちも聖体をいただくことによってイエスがわたしたちの内に来られることを体験します。それが聖体の秘跡の恵みです。

しかし、今日の奇跡のときには弟子たちだけでなく、おおぜいの人々がお腹をすかせて待っていました。そこでイエスは自分で配るのではなく、弟子たちにパンを配らせました。人数が多かったからということもありますが、イエスは弟子たちにいのちのパンを託されたということを表しているのではないでしょうか。ということは、ここでイエスは弟子たちに「イエスのことばを伝える=福音宣教」の使命を与えられのだといえます。ということは、聖霊降臨の出来事ともつながっているということになります。

さらに、残ったパンが十二の籠にいっぱいになったということですが、もちろんこれは無駄にすることはできません。十二はイスラエルを象徴する数字ですから、イスラエル中に配られることを意味します。それはパンをもらった人々の役目です。福音はイエスから弟子たちへ、そして満腹した人々からそれぞれの家庭や地元の人々へとつながっていきます。まさにイエスのパンはどんどん増えていく不思議なパンなのです。

 

パンや魚は人にあげるとなくなります。けれども人にあげてもなくならないもの、それが愛です。愛は神からいただいたもの、福音は愛のみことばです。分かち合うことによって、神の愛はどんどん増えていくのです。

イエスの復活・昇天・聖霊降臨はわたしたちが三位一体の神と結ばれる出来事でした。聖体の秘跡は神との一致を表す秘跡です。けれどもそれで終わりではありません。愛に飢えているたくさんの人々がパンを待っています。パンを託されたわたしたちのするべきことは何だと思いますか?                        (柳本神父)