6月20日年間第12主日マルコ4章35~41節主は嵐の中でともにおられる

奈良ブロックでは二か月間の中止のあと、公開ミサを再開しました。とはいえ、感染が完全に終息したわけではありません。参加者制限もありますので、ミサに来られない方のためにも、この主日の説教のプリントは続けていきたいと思います。

さて、今日のみことばは先週のからし種のたとえに続く箇所です。イエスは弟子たちとともに船でガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとしたとき、嵐におそわれる場面です。イエスの奇跡は病人のいやしがほとんどですが、今日の箇所は自然に関する奇跡です。

以前、わたしが滋賀県にいたとき、幼稚園の遠足に同行して琵琶湖博物館に行きました。そこにガリラヤ湖と琵琶湖がよく似ているという展示がありました。大きさこそ琵琶湖の四分の一ですが、名前が楽器から来ること(ヘブライ語でガリラヤ湖はキンネレット=竪琴の海)、緯度がほぼ同じであること、盆地にあること、湖から流れる川が一本であることなど、共通点が多いそうです。

ガリラヤ湖は小さな湖ですが、イエスが渡るときには大荒れだったようです。盆地なので風が吹き込みやすかったのでしょうか。同じく普段は静かに見える琵琶湖も荒れることもあり、四高のボート部が遭難した事故も「琵琶湖哀歌」に歌われて有名です。

イエスが嵐を静めることができたのは、もちろん神の力によるといえます。弟子たちは「この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と驚きますが、ここにイエスが父なる神と一致しておられる方であることが示されています。天地創造の父と一つであるなら、自然も従うというわけです。ヨハネの福音書に強調されている「わたしと父とは一つである」ということが、マルコではこのように表されているのだといえます。

イエスが渡ろうとされていた向こう岸は次の箇所で「ゲラサ人の地方」だとわかります。そこはデカポリスと呼ばれていたところで、ギリシアの植民地でもありました。いわば、異邦人の住む地方であったというわけです。「湖を渡る」ことは単に対岸へ向かうだけでなく、イスラエルの神を知らない人々に教えを伝えに行く旅であったということです。そう考えると、この嵐は異世界への宣教の困難さを表しているものだと考えることができます。弟子たちは嵐で沈んでしまうことを恐れていたのですが、彼らにとって未知の世界に宣教に出かけることへの恐れと不安もあったかもしれません。

わたしたちの教会は「旅する神の民」と呼ばれています。神の国に向かう旅には、様々な困難が伴います。わたしたちの人生もそうです。とくに今は、新型コロナの感染拡大という大きな逆風にさえぎられている状況です。そのようなとき、イエスはいつもわたしたちとともにいて守ってくださいます。向こう岸に渡るのは勇気がいることです。コロナの今も、元に戻るのではなく、先に向かうようにイエスは励まされます。嵐のときも、いや、嵐のときこそともにいてくださる喜びを感じることができるはずです。(柳本神父)