7月19日・年間第16主日 マタイ13章24~43節  人を毒麦と決めつけてはならない

今日の福音は、先週の「種をまく人」のたとえ話に続くところです。両方に種まきが出てきますが、今日のたとえは良い麦ばかりの先週と違って「毒麦」もまかれてしまいます。後半部分は説明にあたるところなので、たとえの部分を中心に考えてみましょう。

説明にもあるように、「毒麦」は「悪いものの子ら」、すなわち悪人を表しているようです。畑にまかれた種は良い種ばかりであったはずなのに、いつのまにか毒麦が混じってしまいました。では「毒麦=悪人」とはどのような人のことでしょうか。
水戸黄門のような時代劇や韓国ドラマなどでは悪人がはっきりしていて安心して見られます。けれども、現実世界ではそうとは限りません。いい人だと思っていた人に裏切られてしまうことや、悪い人だと思っていた人に助けられることもあります。自分のことを考えてみてもそうです。わたしは善人でしょうか?悪人でしょうか?

そのように考えるとき、「毒麦」のたとえも、善人の中に悪人が混じっているというよりも、わたしたちひとりひとりのうちに「善」と「悪」が混在していることを表しているのでしょう。
しもべたちが主人に毒麦を「抜き集めましょうか」と言ったとき、悪人を征伐する正義の味方のイメージがあったかもしれません。それに対し、主人が「麦まで一緒に抜くかもしれない」と言ったのは、「善人であるか悪人であるかをあなたがたが決めることができるのか」という問いかけでもあったのです。
ルカ6章37節に「人を罪人と決めるな」とあります。わたしたちが「あの人は悪い人だ」と判断するとき、それは自分の感じ方であって、その人のすべてを見ているわけではありません。また、そのときに自分やほかの人と比べて見ていることもあります。人と人を比べて値打ちをつけることをイエスが厳しく戒められています。自分は正しいと思って人のことを批判していたファリサイ派の人々を、イエスが厳しく非難されたのも同じ思いに基づくものでしょう。

たしかに、人間の中には罪や悪があります。それに対して厳しく対処するのは当然です。しかし、そのことによって、人のすべてを否定することはできません。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」という主人の言葉は、人間の判断で人を裁いてはいけないという意味がこめられています。わたしたちにゆだねられているのは、毒麦を抜く仕事ではなく、よい麦を大きく育てることです。先週の福音にあるように、成長を妨げる石やいばらを取り除き、やせた土地には肥やしをやって神の国の種を大きく実らせることです。そうして神の国が完成するとき、神ご自身がわたしたちの心の中にある毒麦をすべて取り除いてくださることでしょう。                     (柳本神父)