7月5日・年間第14主日 マタイ11章25~30節  くびきでイエスと合体する

マタイの10章で、イエスは十二人の弟子たちを宣教に派遣されます。先週、先々週の福音は派遣にあたって弟子たちに語られた内容でした。同じ内容のルカの福音では、弟子たちは喜んで帰って来たということですが、信じない人々も大勢いたようです。
それでイエスは「これらのことを知恵あるものや賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われます。「これらのこと」とは神の福音でした。イエスが宣教を始められたとき、集まってきた群集には貧しい人々や無学な人々が多く含まれていました。彼らは、当時の神の教えでは律法からは遠い人々であると考えられていました。彼らは、イエスのみことばを聞いて、「これこそわたしたちに語られた言葉だ!」と喜んで聞いたのではないでしょうか。

今日の福音の後半は「くびき」の話です。イエスは、「休ませてあげよう」と言いながら、「わたしのくびきを負いなさい」と命じられます。「くびき」は牛や馬が荷車を曳くときに首にかけられる首かせなので、ふつうはいい意味には用いられません。何かにしばられる、苦しみを負わされるようなたとえに使われます。ではイエスはなぜそのような表現をされたのでしょうか。それには「くびき」の役目を考える必要があります。
「くびき」は二頭の牛や馬をしっかりと固定します。いわば合体させるわけです。二頭は必ずしも同じパワーを持っているわけではありません。たとえば荷車を二頭それぞれにロープで曳かせると、弱い方はゆっくりしか歩けないので荷車が当たってしまいます。それで二頭を合体させると、なんと、強い方の力が弱い方を助けるのだそうです。そのためにしっかり結ぶ必要があるのです。
イエスが「わたしのくびきを負いなさい」と言われたのは、さらに重荷を負わせようというのではなくて、「あなたの重荷を一緒に負いましょう」という意味だったのです。

わたしたちは重荷を負って人生を歩んでいます。病気や悩み、さまざまな負担、新型コ
ロナウイルスに対する恐れや不安もあるでしょう。けれども、生きている限り、重荷をおろすことはできません。では、どうすればよいのでしょうか。その答えがイエスの言葉にあります。イエスのくびきを負う、つまり、イエスとともに歩むことです。
負っている重荷が重ければ重いほど、イエスの力は大きく働きます。「幼子のような者」つまり貧しい人々や苦しみを負っている人々がイエスの言葉を求めて集まって来たことがそのしるしです。また、人との出会いのなかで受ける喜び、励ましも重荷を負いきる助けとなります。
先週の福音に「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人」とあるのはそのような人のことを表しているのでしょう。重荷を負いながらも人に喜びを与えることを通して、イエスの仕事を手伝うことができるのです。         (柳本神父)