8月21日 年間第21主日 ルカ13章22~30節 狭い戸口は見つけにくい

 

先週の福音と今日の福音の間には「悔い改めなければ滅びる」こと、「実のならないいちじくのたとえ」など、世の終わりについての戒めが述べられています。そのあと、安息日に腰の曲がった女性をいやした奇跡に続いて「からし種とパン種」の話があります。それに続いて今日の「狭い戸口」の教えがあるので、その流れで見ていく必要があります。

 

ある人が「救われる人は少ないのでしょうか」とイエスに尋ねます。それに対してイエスは「狭い戸口」のたとえをもって答えられます。「入ろうとしても入れない」のなら、やはり救われる人は少ないということでしょうか?

この後に続く内容を見ると、イエスはユダヤの人々に対する戒めを述べておられるようです。おそらく質問した人は律法をきちんと守っているユダヤ人で、「わたしは異邦人や罪人とは違って救いにふさわしい」と思っていたのではないでしょうか。それに対し、イエスは「救いとは神の国に入ること」として語られます。いくら自分は正しい、と胸を張っていても、貧しい人や体の不自由な人を無視し、異邦人や罪人を見下していたら神の国に入れないということです。それに対し、彼らが見下していた異邦人たちが「東から西から、南から北から」来て先に神の国に入ることになるとイエスは告げられるのです。

今日の箇所の前に「安息日のいやし」があるのは象徴的です。安息日は神のためにささげる日で労働することは許されていませんでした。しかし、「働いてはいけない」という掟が強調されることになってしまいました。それでイエスがいやしのわざを行われたこと=労働としてユダヤの指導者たちは責めたのです。それに対し病気の人がいやされることこそが神に喜んでいただくことであり、神の国のわざであることをイエスは示されたのです。それは形式的に律法を守ることにこだわる人々に対する戒めでもありました。

さらにイエスは「からし種とパン種のたとえ」を語られています。これは神の国が大きく膨れ上がるということです。ということは、神の国は多くの人が入れる場所だということです。ではなぜイエスは「入ろうとしても入れない人が多い」と言われたのでしょうか。

 

「救い」というと死後の世界のことを考えますが、イエスの教えはこの世の生き方が中心です。神の国についても、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章21節)と言われているように、この世のことを表しています。

この世において神の国の教えに無関心であれば、せっかく用意された神の国に入ることができません。現実の世界では、多くの人が財産や地位、名誉や健康というこの世のことを求めています。それ自体は人間が生きるために必要なことですが、それを人より多く求めてしまいます。自分だけ、家族だけ、仲間だけ、自国民だけがよければいいという考え方では神の国の戸口を見つけることが難しくなります。狭い戸口は見つけにくいですが、イエスについて行けば見つけられます。そして戸口の奥は広いのです。  (柳本神父)