9月18日 年間第25主日 ルカ16章1~13節 預かっているものの有効利用

 

今日の福音は、先週の「放蕩息子のたとえ」に続く箇所です。前回の三つのたとえ話は「見失ったものを見つける喜び」がテーマでしたが今回は少し変わります。今回のたとえは「不正な管理人のたとえ」です。ちょっと妙なたとえのように思えますがイエスは何を語りたかったのでしょうか?

 

管理人は「財産を無駄使いしている」と内部告発されたので放漫会計を行っていたようです。自分のために使っていたかどうかはわかりません。それで主人は彼をクビにすることにしたようです。そこで管理人は、主人に無断で借りがある人の負債を割り引くことにします。こうすれば借りていた人は彼に感謝するので、助けてもらえる友人を作ることができたということです。ところが主人は管理人を叱るどころか逆にほめました。

この文章を書いているときに、宇陀市の温泉施設の運営を委託されている業者が、市に無断で入浴定期券を割引販売していたとして、市は業者との契約を打ち切り、提訴することにしたというニュースを見ました。定期利用の方は喜んだでしょうが、これが社会の現実ですね。ではなぜたとえ話の主人は管理人をほめたでしょうか。

イエスのたとえでは主人といえばたいてい神のことです。そうなると管理人はわたしたち、借りのある人は隣人というところでしょうか。わたしはこのたとえを理解するためには「タラントンのたとえ」や「ムナのたとえ」を併せて読むことが助けになると思います。これらのたとえは主人がお金を預けて旅に出る、という話です。そしてお金を増やした人はほめられ、土に埋めておいた人は叱られます。お金を預けるというところが今日のたとえと共通しています。ここでお金を増やした人はお金を「使った」のです。その結果儲けることができたのですが、彼らはお金を有効利用しています。しかし、埋めておいた人は失うことを恐れて使わなかった人です。

わたしたちも神からこの世の命を預かっています。富や財産を神からもらったというのはちょっと無理があるかもしれませんが、この世のものは人生を生きるために預かったものだと考えることができます。それで今日の管理人は預かった財産を使って友人を作りました。借りをまけてもらった人は、彼だけでなく主人にも感謝したのではないでしょうか。主人にとってもこれは財産の有効利用だったわけです。

 

富や財産はこの世で必要なものですが、それにとらわれることによって大切なものを見失ってしまいます。「不正にまみれた富」という表現も、悪事を働いて得たお金という意味ではなく、そのような意味で使われているのでしょう。今日の管理人は、自分が職を失うかもしれないという緊急事態の中で、自分が預かったものの有効利用を考えました。それは彼にとって、この世で自分の預かっているものを使ってどのように隣人に喜んでもらうか、ということを考える機会でもあったのです。           (柳本神父)