11月1日・諸聖人 マタイ5章1~12節a 聖人の役割を果たす

教会では11月最初の日の今日、諸聖人を祝います。今年は年間第31主日が1日なので、諸聖人の祭日となります。また、11月は死者の月ですが、その最初にまず聖人たちを祝い、次の日を死者の日として、すべての死者を記念します。

では「聖人」とはどういう人でしょうか。狭い意味では教会で「列聖」された人です。わたしたちが毎年記念しているユスト髙山右近は、列聖の前段階である「列福」によって「福者」とされました。いずれも、わたしたちの模範となる、信仰に生きた人々です。さらに、「列聖」されるために、その方の執り成しによって、奇跡が起こる、あるいは祈りが聞き届けられるということが必要とされています。

「執り成し」は、以前の信仰宣言では「諸聖人の通功」と言われていました。耳で聞いて、聖人たちが行ったり来たりする、「諸聖人の通行」だと思っていた人もいるかもしれません(それは私です)。通功、執り成しとはわたしたちの願いや思いを神さまに取り次いでもらうことです。この世のわたしたちのもとから天の国に運んでもらうわけですから、霊的に「通行」しているとも言えるのですが…。

わたしたちは洗礼のとき、洗礼名をいただきます。聖人の名前をいただくとき、天国でその聖人は、名前をつけてくれたことを喜ばれることでしょう。それで、わたしたちのために祈ってくださり、わたしたちの祈りを神さまのもとに届けてくださるのです。

また、わたしたちは「天国の○○さんがわたしたちのために祈ってくれる」「亡くなったおばあちゃんが守ってくれた」などと言うことがあります。聖人でなくて、天国から支えてくれる広い意味での「執り成し」であるといえるでしょう。

今日の福音は、イエス「山上の説教」の、「幸い」についての教えです。この中には、「悲しむ人々」「義に飢え渇く人々」「悪口をあびせられるとき」など、とても「幸い」といえないことも「幸いである」と言われています。そういった人々は、神によって慰められ、天の国をいただくからだ、ということですが、イエスは「我慢したら天国に行ける」と言われているのではありません。天の国=神の国はこの世のことでもあります。

イエスは、この世で神の国を実現するための福音を宣べ伝えられました。きょうのみことばも、悲しんでいる人々、苦しみを受けている人々がこの世でも慰められ、満たされることを神さまは望んでおられます。

聖人とは、神の国の実現のために尽くした人です。また、その人自身が迫害や苦しみを受ける立場となった人です。その意味では、列聖されていなくても広い意味での聖人はたくさんおられます。列聖されるのは、とくにその行いや信仰がすばらしく、みんなの模範となることが公に認められた人であるといえます。しかし、わたしたちも人を愛し、人のために祈り、苦しみをささげるとき、聖人の役割を果たしているのです。  (柳本神父)