11月27日 待降節第一主日 マタイ24章37~44節 目を覚ましてキリストを待つ

 

今日から新しい典礼暦年が始まります。いわば教会のお正月。といっても特にお祝いがあるわけではなく、待降節の始まる日です。待降節は読んで字のごとく、降誕を待つ、という意味ですが、単に待つだけでなく準備する必要があります。旧約の民は救い主の到来を待ち続けてきました。今のわたしたちにとってはイエスの降誕は過去のことですが、旧約の民と心を合わせて新たな気持ちで救い主を迎える準備を始めていきましょう。

 

今日の箇所はイエスがエルサレムに入られた後、弟子たちに語ったとされているみことばです。神殿の崩壊の予告から始まって、イエスは世の終わりについて語られるのですが、その一部分です。「待降節なのに世の終わりの福音?」とも思いますが、現代のわたしたちが待っている主は、神の国が完成したときにふたたび来られる「王であるキリスト」なので、世の終わりについて考えるのはふさわしいことなのです。

例年待降節の第一主日には例年「目を覚ましていなさい」というイエスのことばが読まれます。わたしは幼いころ、高田浩吉さんの歌が好きで、テレビの歌番組で「出はるまで起きている」と言っていても寝てしまっていました(高田浩吉の好きな子供って今考えるとおかしいですね。高田浩吉をご存じない方は調べてみてください)。あくる朝に「なんで起こしてくれへんかったん!」と怒った記憶があります。そのようにいつ出会えるかわからないからイエスは「目を覚ましていなさい」と言われているのでしょうか。

しかし、イエスは泥棒をたとえに使っておられます。わたしたちにとってイエスの到来は高田浩吉以上にうれしいはずですが、よりによって泥棒とは!たしかに泥棒は熟睡している時を狙ってやってくるので起きていないと盗みに入られてしまいます。しかし、ここでは「思いがけない時に来る」という点が強調されています。では「目を覚ましている」ことによってどのような実りが得られるのでしょうか。

ある解説によるとこの箇所のあとにも「目を覚ましていなさい」という内容のたとえが続き、25章の31節以下で初めてその意味が明らかにされるとしています。たしかにこのあとの26章からはイエスの受難が始まるので、25章の最後がこの一連の説教の結論だということでしょう。そこでは「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というイエスのことばがあります。それは「互いに愛し合いなさい」というイエスのメッセージを表しています。

 

再臨のキリストはいつやってくるかはわかりません。しかし、わたしたちにとってキリストとの出会いは日常生活のさまざまな機会に用意されています。とくにわたしたちがイエスの「互いに愛し合いなさい」ということばを実践するとき、そこにイエスがおられることに気づくことができるのです。「目を覚ましている」とは「互いに愛し合う」ことでもあります。互いに愛し合うことによって、神の国が実現するのです。  (柳本神父)