11月6日 年間第32主日 ルカ20章27~38節 生きている者の神なのだ

 

 11月に入り、典礼暦の一年の終わりが近づきました。教会では、「王であるキリスト」を年間の最終主日として世の終わりを記念します。それで今日から三週間を「終末主日」として、世の終わりを思い起こす期間とされています。今日の福音はその最初に人生の終末と復活の姿について考えます。今年の司教の年頭書簡が「キリスト者の終活」ですから、併せて黙想するのもふさわしいでしょう。

 

イエスはサドカイ派の人々の質問に答える形で復活の姿を教えられました。サドカイ派は「復活はない、つまり死後の世界はない」という考えでした。それに対してファリサイ派は死後の世界を認めていました。同じユダヤ教で考え方が違うのはおかしいように思いますね。とくに死後の世界という宗教にとって重要な教えが違うのは不思議に思いますが、ユダヤ教は律法を守り、いけにえをささげることが宗教上の勤めでした。旧約聖書には死後の世界の存在がはっきりと書かれていなかったので、同じユダヤ教徒でも考えが違ったのです。その意味では今の宗教のイメージとは違うかもしれません。

 以前にも書きましたが、三重県のある信者さんが「わたしはとうとう父が亡くなった年を越えてしまいました。あの世ではわたしのほうが年上になるのでしょうかねえ」とおっしゃっていました。今日のサドカイ派の質問に似ていますが、冗談で言われたのでしょう。あの世のありさまはだれもが知りたいところですが、だれもわかりません。イエスもはっきりとおっしゃっていません。ただ言われているのは「めとることも嫁ぐこともない」ということです。そこには、この世の常識とは違う世界があるということでしょう。

 教区時報12月号(現時点では未発行)にも書いたのですが、あの世にはこの世のものは持って行くことができません。それはこの世のものにこだわる人にとってはつらいことでしょう。わたしはできればあの世でもお風呂に通いたいと思っています。それで奈良教会の信者で勇湯をなさっていた磯崎さんが亡くなられたときのお説教でわたしは「天国でお湯を沸かして待っていてくださいね。真っ先に入りに行きますから」とお話ししました。ほんとにそうだったらいいなあと思いますが、あの世でわたしが入っているのは地獄の釜だったりして。「おーい、もうちょっとぬるくして~」なんて落語じゃないんですから。

 いずれにしても、あの世のことは心配しないで神さまにお任せして、今を大切に生きることが必要なのではないでしょうか。

 

イエスは「神は生きている者の神なのだ」と言われます。「生きている」はこの世とあの世を問わず、神から与えられたいのちを生きるという意味です。それは、同じく神からいのちを与えられている他者を大切にするということでもあります。イエスはサドカイ派やファリサイ派の人々に「生きた信仰」を求められました。わたしたちにも神からの愛をおたがいに分かち合う信仰が求められているのです。          (柳本神父)